山と山がせめぎ合っていて、その幅20メートルほどしかなかったでしょうか、その道の脇に、この地で有名な神社の参拝客用の旅館が、今でもあります。そのひなびた旅館に、二階建ての離れがあったのですが、そこが私と弟が生まれた家でした。だれも住まなくなって、廃屋のようになっていたのが、潰れてしまったのでしょう、今は跡形もありません。その旅館の離れに家族を住まわせて、そこから山道をずっと上がったところに、父が働いていた軍需工場がありました。200人ほどの従業員がいて、飛行機の防弾ガラスを製造する原材料の1つである、「石英」を採掘し、それをケーブルで沢違いの基地に運び、トラックで駅まで運び、駅から貨物列車で京浜地帯にあった工場に出荷していたのです。終戦の前の年に、山形から、私を宿した身重な母は、この山奥まで、軍命に従った父と、二人の兄を連れてやって来たのです。そこで私を生んでくれたのですが、真冬の12月でした。弟を生んでから、沢違いのケーブルの到着点にある社宅に引っ越しをしました。そのケーブルには、山で撃ち取った〈熊〉が運ばれてきて、真っ黒な塊が、ケーブルの脇に、時々置かれていたのを思い出します。鹿もあったでしょうか。記憶にはありませんが、それを、何度も食べたのでしょうね。

 戦争が終わって、軍需工場は閉鎖されてしまいました。戦時中、米軍は、こんな山奥に軍需工場があるとの情報を得ていなかったのか、爆撃対象から外れていたのは幸いでした。ですから、このケーブルは、木材の運搬のために使われていました。父は、県有林を払い下げてもらって、全く畑違いの「材木業」をしばらくしていたのです。そのケーブルに私は、どうしても乗りたかったのですが、父は決して許してくれませんでした。上の兄たちは乗せてもらった経験談を、誇らしげに話していたことがありますが。

 その山奥に、母の故郷から、親戚ではなかったのですが、弟のように世話をしてきた、予科練(海軍予科練習生)帰りの方がいました。立派な体格をしていていたのを思い出します。父も母も、『繁ちゃん』と呼んでいましたので、私たちも、そう呼んでいました。この方が、私をおぶって、山道を泣きながら連れてきたことがあったそうです。これも記憶がないのですが、屈強な男が泣いてしまう程の長い道のりを、おぶってくれたのです。この話を、父がよく聞かせてくれたので覚えています。いつでしたか、出張で山陰に参りました時に、この繁ちゃんの家を訪ねたことがありました。『こんな話を父から、よく聞かされました!』『ごめんなさい!』と言いましたら、彼は、ただニコニコ笑っていただけでした。日本におりました時に、夏には「二十世紀梨」、暮には「出雲そば」と「野焼(アゴという飛魚で作った蒲鉾)」が、毎年、この繁ちゃんから母と上の兄の家と弟、そして私とに、それぞれ送ってくれたのです。

 そんな関係で、わが家には、石英に結晶した「水晶」が、床の間に飾られていました。相当に重かったのを覚えています。それが、いつの間にか、なくなってしまっていましたが、気前の良い父は、大事にしていたのに、きっと、どなたかに上げてしまったのではないでしょうか。もしかしたら、戦争の記憶を捨ててしまいたくて、父が処分してしまったのかも知れません。そういえば、父も母も、何も残さなかったのです。後生大事にしていた宝物とか趣向の蒐集品というものは、まったくないのです。ただ本は好きだったので、それが残っていることでしょう。そんな母の書庫の中から、昨年帰国しました折に、一冊の本を、こちらに持ってきております。母が上の兄の家にいましたので、断りなく持ってきてしまったのですが、母は許してくれたことでしょう。この本の第三表紙に、『2008年TK』と記されてあります。91歳の母が、立川の書店で買ったのです。そんな年齢までも読書欲があったのには驚かされてしまいます。そういえば、買い物の好きな母でした。『みんなが学校に行ってる間に、わたしは新宿に買い物に行ってきたわ!』と、なんども言っていたのです。明日は5月1日、稲妻と大轟と雷雨の午後であります。

(写真は、「岩村清司のブログ」に掲載されていた〈我が故郷の山から望む富士〉です)

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