バベル

  

 日暮里から乗り込んだ、成田に向かう京成スカイライナーの右側の座席に座った私の視野に、「東京スカイツリー」が入ってきました。高さが634mもありますから、ひときわ目立つ塔ですが、かなり遠くに見えていました。その高さが、「武蔵、ムサシ、634」から来ていると聞いて、地上デジタル放送用に建てられた塔でありながら、〈語呂合わせ〉で高さが決められるというのは、建造目的が科学的であるのに、ネーミングは実に愉快なことだと感心してしまいました。私の上の兄が初めて手にした自動車の番号が、「2343」でした。義理の姉の名が、「文代、フミヨ、234」で、それに「さん、3」をつけた番号だったのです。当時、車のナンバーを選ぶことなどできませんでしたから、天からの授かりものだったことは言うまでもありません。この塔を眺めながら、『次に帰国したら、3000円を払って、展望台に登ってみよう!』と決心をしたのです。

 実は建設中に、JRの「成田エクスプレス」に乗って成田から東京に向かっていた時に眺めたことがあったのですが、車窓から初めて見えた塔は、圧倒されるほどの高さで、電車が地下に潜るまで見え続けていたのには驚かされてしまいました。《高さ競争》というのが、建設業界にはあるのです。ギネス認定を目的に、必要なのかどうかわかりませんが、高さを競い合うことに、「遊び心(!?)」を感じてしまうのですが、みなさんはいかがでしょうか。

 幼稚園児だった長男を連れて、東京に出てきた私は、芝公園の近くある「東京タワー」見学に行きました。展望台に上がる料金の高さに驚いて、上の展望台に息子を連れていって上げることができませんでした。『もうすこし奮発すべきだった!』と後悔してしまいまい、『貧乏くさく生きるのを、もうやめにしよう! ]』と、後になって決心したほどでした。それでも息子は、そこで買ってあげた飲み物を、実に美味しそうに飲んでいて、満足そうにしていたのです。私の通っていた学校は、この「東京タワー」に近かったのです。当時、「都電(路面電車で今の地下鉄の路線の上に走っていたと思います)」に乗るとすぐのところにあったのですが、長男と訪ねるまで、一度も行ったことがなかったのです。

 高さだけではなく、その偉容に驚かされていたのが、ニューヨークのマンハッタンにあった「世界貿易センター(WTC)」でした。2001年、「9・11」のテロ攻撃によって、崩壊していく様子を、娘が国際電話をかけてくれたからだったと思いますが、テレビのチャンネルを回して、目の当たりにいたしました。『お父さん、バベルの塔だね!』と、一緒に見ていた次男が言ったのを、今、思い出しています。歴史的故事に出てくる「塔」のことです。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。 言って、瀝青とレンガを用いて、シヌアルの平地に建てられたものです。この塔が「バベル」と呼ばれたのですが、その意味は英語で、「バビロン(バビロニヤ帝国の首都の名)」です。この塔は実在していたと言われ、チグリス川とユーフラテス川の河畔にあって、高さが90m、7階建の建造物だったそうです。「頂が天に届く塔」というのですから、人間の驕りと、造物主への挑戦、挑発を意味して建てられたものであったのです。

 そういった意味で、「世界貿易センタービル」というのは、世界中の国々の有名企業が、このビルの部屋を借りて、経済経営活動を展開していましたから、「20世紀の人類の誇り」を象徴するような「塔」、20世紀の「バベルの塔」であったのは、息子の言うとおりだったかも知れません。「バベルの塔」は完成をみることなく、計画は頓挫してしまったと記録されています。多くの犠牲者のみなさんには申し訳ないのですが、WTCの偉容に見え隠れしていた「人類の驕慢さ」が、テロという蛮行によって打ち砕かれたような気がしたのは、私や息子だけではなかったと思うのです。というよりも、人の営みというのは、蛮行にしろ、自然災害にしろ、一瞬のうちに潰え去ってしまうのだということを、私たちに知らせてくれているのかも知れません。だから、「大きなもの」や「高いもの」を誇るのではなく、人は謙虚に生きるべきなのかも知れません。日本の先人たちがいみじくも残してくれた教訓に、今は聞くべき時に違いありません。

 

(写真は、http://ameblo.jp/kiyurino-jp/image-11240997715-11952455899.htmlの「東京スカイツリーの夜景」です) 

怒り

 ものすごい雷光、轟、雷雨が、このところ毎日なのです。まるで、天が怒っているように感じてしまうほどです。私たちが長く生活しました街も、雷が多かったのですが、大陸のこちらとは、比べ様がありません。閃光の長さも、轟の音量の大きさ、雨の量も半端ではないからです。5月の「労働節」の連休の時期ですが、以前は、一日一回ほどの雷の回数だったのです。ところが今年は、繰り返し繰り返し、日に何度も雷が発生しているのです。やはり、異常気象に違いありません。毎年この時期に、雷はあるのですが、このような情況は異常なのだそうです。

 私が、一人の友人と初めて韓国のソウルを訪ねたのは、長女が生まれた年でしたから、1974年の夏になります。朴大統領が狙撃され、夫人が打たれて亡くなるという事件が、ソウルに滞在中に起こりました。『犯人は、日本人だ!』とのニュースが駆け巡りましたので、私たちは外出を控えたのですが、間もなく、日本人ではなく、在日の北朝鮮系の男であることが判明しました。当時、ソウルの街は夜の11時を過ぎますと、灯火管制が行われ、一般市民の外出が禁止されていました。そういった緊張感を感じたのは初めてのことでした。日本が敗戦した後に、朝鮮半島が38度線で南北に分断されていました。ところが1950年6月に、北朝鮮が韓国に向けて砲弾を発射したことから、いわゆる「朝鮮戦争(朝鮮動乱とも言います)」が勃発してしまいます。北朝鮮の主張は、「民族解放戦争」だとしていますが、ソウルが陥落してしまったほどでした。韓国はアメリカの占領下に、北朝鮮はソ連の占領下にありましたから、同じ民族が、内線を繰り広げたというのは、悲劇であったのです。

 実は、日本も敗戦後、4つに分割されて、占領される動きがありました。結局、戦勝国となった国々が協議して、アメリカ一国の占領が行われることになりました。もし4つの国に、それぞれが占領されていたならば、朝鮮半島と同じように、内戦が行われる可能性は実に高かったのではないでしょうか。東アジアの国々が民主化し、近代化されていくためのモデルと、日本がなれたのは、不幸中の幸いだったのではないでしょうか。

 この南北両国が、熾烈な戦争を繰り広げる中、ソ連のスターリンから、中国に参戦が求まられ、北朝鮮に援軍を送ります。韓国は、アメリカ軍と国連軍と共に、これに応戦するという形で、戦争が繰り広げられてしまうのです。私の若い知人のおじいさんもおばあさんも、この戦争に参戦した中国軍の将校だったと聞いています。この戦いの休戦協定を交わされたのが、1953年7月でした。それ以来、休戦状態のまま今日に至っているのです。

 なぜ朝鮮戦争のことを取り上げたかといいますと、この半島が南北に分断されて以来、韓国は、驚くほどの経済的な国家として躍進してきておりますが、北朝鮮は全く違うのです。軍事優先が、国を疲弊させていること、異常気象の影響を受けて、農業生産が危機的な状況にあって、飢餓死する人の数は夥しいものがあり続けてます。寒さに強い農作物の開発研究などが行われていないことも大きな問題ではないでしょうか。国民が満足に食べられなくて、何が国家でしょうか、国の指導者でしょうか。食の必要を満たすことなく、宇宙開発などをするのは、15年も早いのです。『何かが間違っている!』、このことがこの国の問題です。

 ところで、最近の日本も、『何かが間違っている!』、のではないでしょうか。天然の祝福が、じょじょに陰りを見せているのです。天災に見舞われ、大手の製造業の不振、青少年の夢や理想の欠如、国民全体が悲観的になってきています。何よりも、『大きな地震が起こるのではないか!』という不安、福島の原発事故による、放射能漏れの生活への甚大な影響、北朝鮮からの攻撃の可能性などがあって、国が怯えてしまい、まったく勢いがないのです。人の第一の必要を満たすことから目を逸らして、本末転倒になってしまうと、自然のサイクルが異常をきたし、祝福のベールが追い払われてしまうのではないかと思うのです。それを北朝鮮に見、更に今の日本に見てしまうのです。もしかしたら、天が怒っているのかも知れません

 この素晴らしい国土を頂いた私たち日本人が、感謝を忘れず、驕りを捨てて、互いを敬いながら、隣国と和して、この困難、国難を乗り越えていけるよう、一人一人が反省し、互いに励まし合いたいものです。何よりもこの平和は、何にも代えがたいものがありますから、失いたくないのは私だけではないと思うのです。

(写真は、〈NHK「宇宙の渚〉より「スプライト(雷の上部の閃光)「」です)