ワカメちゃん

 4コマ漫画で、最も有名なのは、「サザエさん」でしょうか。この漫画の登場人物が、海産物の名が用いられていて、さすがに海洋国家、魚を食べて体を作ってきた日本の人気漫画だと、感心してしまいます。彼女の苗字が「フグタ」で、両親が「磯野」ですね。ご主人が、「マスオさん」で、「マスオさん現象」という言葉が飛び出すほどでした。この現象を、「知恵蔵2011」で調べてみますと、次のようにありました。

 『夫が、妻の実家に、婿入りという形をとらずに同居する家族形態。・・・世帯住宅が一般化した1980年代から使われるようになった。精神科医の和田秀樹は「パラサイト・ダブル(寄生する2人)」と呼び、こうした家族形態を推奨している。 ( 山田昌弘 東京学芸大学教授 ) 』

とあります。『たかがマンガ、されど漫画!』ということになります。私の父の時代には、「フクチャン」という新聞漫画があったと聞いています。その日その日の話題の中から、毎日、これを休まずに掲載するという作者の凄さに驚かされてしまいます。この「サザエさん」は、朝日新聞の朝刊に連載されていて、子供の頃父がとっていて、よく読んだことがあります。その後、父が読売巨人軍のフアンだったこともあって、「読売新聞」に変えてしまいましたが。作者の長谷川町子が亡くなってからでしょうか、テレビでもやっていたのですが、「4コマ」の面白さは格別だったと思います。毎日新聞では「フクちゃん」、読売新聞では「コボちゃん」が有名ですが、この6年以上、日本の新聞を読む機会がなくなってしまいましたので、帰国時に読む程度になってしまっています。

 この「サザエさん」の妹に、「ワカメちゃん」がいます。昨日、送迎バスのあるスーパーマーケットに、買い物に出かけたのですが、そのバスに乗り込んできた女の子が、「ワカメちゃん」の髪型、「おかっぱ」だったので、女房の脇をつついて、しげしげと眺めてしまいました。今は、日本では、変形したものはあるようですが、この原型は全くみられなくなったものです。懐かしさ、郷愁を感じてしまいました。娘たちの髪の毛を女房が切っていた時に、この「おかっぱ」にしたことがあって、二人がとても嫌がっていたのを思い出してしまいました。でも、よく見ますと、とても可愛いので、こういうのを”ノスタルジー(Nostalgia)”というのでしょうか。ここ中国には、「かつての日本」が残されているので、ときどき『ハッ!』とさせられることがあり興味がつきません。

 小学校の同級生は、天然パーマでない限り、ほとんどが、この髪型だったのですが、今では昔の面影はないのでしょうね。女房も、オカッパだったと言っていますから、遠い良き昔の出来事の一つなってしまったわけです。明日からは、「文月(ふづき)」、七月になります。真夏ですのに、旧暦だと「秋」になるのには、驚かされてしまいます。40℃以上の酷暑の夏を乗り越えたいものです。

(写真は、岸田劉生の「童女図/麗子立像(1923年,神奈川県立近代美術館)」です)

名山

 「日本百名山」があるなら、ここ中国にも「百名山」があっていいと思うのですが。南北に走る日本列島の背骨の部分が山岳地帯で、山が織りなすように重なっている日本とは、こちらは違うのですが、一般的な「中国四大名山」というのは、黄山(安徽省・1841m、廬山(江西省・1474m)、泰山(山東省・1545m)、華山(陝西省・2160m)らしいです。ちなみに五岳(五名山)は泰山(東岳・山東省)、衡山(南岳・湖南省)、嵩山(中岳・河南省)、華山(西岳・陝西省)、恒山(北岳・山西省)だそうです。

  深田久弥が、書き始めた山岳随筆が、1964年に本となって出版されてからでしょうか、「百名山」と言われるようになったのです。人に人格があるように、山にも「品格」があると深田久弥は述べ、そういった点から選ばれているようです。その他に、「ニ百名山」とか「三百名山」というように呼ぶ山もあるようです。この深田久弥が、1971年3月、登山中に脳卒中で急逝したのが、「茅ヶ岳」です。この山は、山梨県韮崎市にあり、標高1704メートルといった低い山ですが、頂上からは、富士、八ヶ岳、南アルプスの峰々が眺められ、二百名山の1つに数えられております。

 山好きな方に誘われて、この山に登ったことがありました。頂上の枯れ草に横になって、昼寝した時の気持ちよさが最高だったのを思い出します。登山道の脇に、深田久弥の「終焉の地」と書かれ小さな碑があり、彼、68歳の時だったようです。先日は、70過ぎの女性登山家が、エベレストと登攀に成功し、最高年齢記録74歳を樹立したと、ニュースが伝えていました。凄いことですね。日頃の鍛錬が、どれほどであったかを知らされるのですが、このかたのことを考えると、帰国時には、再び「茅ヶ岳」に挑戦するのは、そんなに難しく、尻込みすることでもなさそうだと思われますが、帰国時に、手4ンキが好かったら挑戦してみたいものです。もう1つ考えているのが、「入笠山」です。この山も、茅ヶ岳に近いところに位置して、頂上からの眺望はピカ一の山なのです。季節はずれの12月ノアm値上がりのあった週の週末に、家内を誘って登ったのですが、斜面には雪が残っていて、頂上に登るのを諦めて、林道を回って下山した時の難儀が思い出されてしまいます。危なく遭難だったのですから。

 『気ばかりが若いんだから!』と、女房によく言われますが、今は、マウンテンバイクにまたがって、炎天下を颯爽と走って(自分ではそう思うのですが、はたから見てなんと思っているかはわかりませんが)、老化防止の運動に余念のない私ですが。今春、退職した弟を誘ってみましょうか。二人で登ったら、実現できそうですね。3月末に母が召されましたから、帰国の一大目的がなくなってしまったのですが、そんな楽しみを懐に、やはり、今夏も帰国したくなって参りました。

(写真は、〈http://homepage3.nifty.com/yasda/Oni/kaya.htm〉の「茅ヶ岳」の日の出です)

花火

尾崎士郎の「人生劇場」は、戦前、都新聞の新聞小説として連載され、大人気を博した作品です。上の兄の影響でしょうか、小説を読むことを覚えた高校生の私は、夢中になって読んだのです。とても面白かったのを思い出します。「青春篇」は、尾崎士郎が早稲田の文学科に学んだ折、その学生生活から自伝小説を書いたわけです。青成瓢吉という主人公で、父の世代の早稲田の学生生活を知ることができて、興味深かったのです。広沢虎造の浪曲に、「吉良の仁吉」という人が登場しています。清水次郎長の子分で、「男」として語られており、何度も聞き覚えがあります。そういえば、最近は浪曲、浪花節というのを聞きませんね。ラジオしかない時代に、よく流れていたのですが。

この「仁吉」の末裔の「常吉」を「吉良常」と呼び、これに「飛車角」といった人物を登場させた「残侠篇」が面白かったのです。ヤクザの世界から足を洗って堅気になった男の物語でした。この吉良常が花火師として、上海の夜空に花火を上げる件が実に印象的でした。高校生で単純、単細胞な私は、『よーし、花火師になろう!』と心に決めたのです。『何時か上海の四馬路の水辺で花火を上げてやろう!』とです。このおっちょこちょいの願いは叶えられないまま、夢は潰(つい)えたのですが。

ところが17年ほど前に、私は、北京、フフホト(内モンゴール)、広州、上海と旅行をしました。その時、出来上ったばかりの「上海タワー(東方明珠電視塔 )」に昇って、『あそこが日本人街があったあたりです!』と、私たちを案内してくださった方が指さした方を見つめていました。「人生劇場・残侠篇」の光景がよみがえるようでしたが、それからは、一度も上海を訪れる機会がありません。戦争前も現在も、日本人が多く居住している街ですが、一人で行く自信がありませんが、誰かに案内していただいて、また訪ねてみたいと思っています。

もう一昨年になるのですが、「上海万博」が行われた際に、驚くほどの数の花火が主会場の夜空を焦がしていました。人工的な美ですし、瞬間の煌きですが、花火は人の心を踊らせる不思議な力を持っているのを感じてしまいます。次男が、京王線の「聖蹟桜ヶ丘駅」の近くに住んでおりました時に、多摩川の河川敷で打ち上げられる「花火大会」の席を、久しぶりに帰国する私と家内の分を買っておいてくれたのです。その時、家内は帰国出来なかったので、見ることができませんでしたが、私は、生まれて初めて、一等席で見上げることが出来たのです。夏の風物詩として、日本中で花火大会が行われるのですが、東日本大震災が起こる前でしたので、満喫させてもらいました。

吉良常が上げた花火に、上海在住の邦人が、きっと歓声を上げたように、その大会でも大きな歓声が上がっていました。それまでは、遠くから見る花火に趣があると思っていましたから、わざわざ出かけていくことはなかったのですが、『ドスン!』と上げられ、『パーン!』と炸裂して火花を降り注ぐ花火を、頭上に見ることが出来たのは、驚くべき経験でした。今年は、《自粛ムード》という日本独特の慎みを、緩和されて、そこかしこで「花火大会」が持たれるのではないでしょうか。景気が低迷したり、災害があったり、愛する人との死別があっても、生きている人が元気になるためになされる様々な催しが、罪意識なく行われる方が、好いのではないかと思うのです。遠慮ばかりでは、なかなか人の心が高揚しないからです。一瞬の煌きを、浪費や無駄と断じるばかりではなく、人の心に、『一花咲かせたい!』との元気な思いを生み出すなら、かえって、被災地で花火を上げてもらいたいものだと思うのです。

いつだか見た値段表にあった、《尺玉で6万円》には驚かされたのですが。小遣いを握って、雑貨屋に跳んでいって買った「袋入り花火」を、兄弟4人で楽しんだ日がありましたし、グアム旅行に義兄が連れていってくれた時に、上の二人の子と、税関を無事通過した花火を楽しだこともありました。そういえば私の親爺も花火が好きだったのです。「線香花火」のチマチマした閃光が、とても懐かしく思い出されてきます。

(写真は、HP「゜+.(・∀・)゜+.゜伊那市近辺の食事処めもー!」の高遠城下まつりの「花火」です)

気骨の人

 中国語では、大きさを「大小daxiaoダシャオ」といいます。『日本は大きいのがいいのか、それとも小さいのがいいのか?』、政治や軍事や経済の面で対照的な考えが、これまでありました。それは、家の大きさも、車も、自分の体だって、そうかも知れません。幕末の人物の中で好きだったのが、長州藩士(現在の山口県萩市)の高杉晋作です。倒幕、尊皇攘夷(日本で江戸末期、尊王論と攘夷論とが結びついた政治思想。朱子学の系統を水戸学などに現れ、下級武士を中心に全国に広まり王政復古・倒幕思想に結びついていった。勤王攘夷。尊攘。)」の中心人物でした。自分の藩のことだけではなく、日本の将来を危惧していた人でもあったのです。彼もまた、幕末に活躍した人物、西郷隆盛や坂本龍馬たちと同じで、石高の低い下級武士の子でした。

 1862年、明治維新が1868年ですから、その6年ほど前の五月に、長州藩の命を受けた高杉晋作は、中国の上海を短期に視察をします。彼22才の時でした。この留学は清朝の動静を探り、その情報を得る任務が課せられていたようです。当時の「清」がイギリスなどの欧州諸国の進出で、植民地化の動きがあるのを実際に観ます。「アヘン戦争」で敗れた中国は、イギリスの勢力の支配下にあり、その悲惨さを目撃します。また「太平天国の乱」で混乱する上海の世情も眺めるのです。このような清朝の「危機」は、何も対策を講じないなら、やがて日本にも、同じ危機をもたらせるに違いないと結論したのです。

 徳川幕府の末期は、風雲急を告げる様な世界の嵐の中にあったこと、その思いを強烈にしていた上海視察であったのです。長い鎖国によって欧米諸国に遅れをとっているという日本の現状の中での「危機感」でありました。高杉晋作は、「尊皇攘夷」の思いをさらに強くし、新しい日本の到来を願ったのです。ですから、明治維新以降、日本は、「遅れを取り戻すこと」、「欧米に追いつくこと」、「欧米を追い越すこと」を掲げて、「大日本」の建設をしていくのです。「殖産興業」、「富国強兵」は、明治維新政府のスローガンでした。それは、敗戦によって終わるのですが、国土も資源も小さな日本が、行く道を誤ったか、時代の動きに翻弄されたのか、鼻っ柱をくじかれることになって終わったのです。

 高杉晋作は、日本の命運に心を注いで、動乱の時代を駆け抜けます。しかし、1867年5月17日に、「おもしろきこともなき世をおもしろく」という辞世の句を残して、 28年の生涯を閉じてしまいます。彼の師は吉田松陰 でした。幕末に、多くの青年たちに精神的な感化を「松下村塾」で与えています。私が中学と高校で学んだ学校を起こした校長は、『松陰の弟子だ!』と言っていたのを聞いたことがあります(時代が違いますから、思想的な弟子のことでしょうか)。この「大国主義」の松陰の弟子の高杉晋作もまた、「大日本」を願ったのでしょう。松陰は29才で処刑され、彼も28才で病死していますが、血気盛ん、熱血の青年武士は、「大国」になっていく日本を夢見たに違いありません。

 私の好きな政治家、と言うよりはジャーナリストの一人が、石橋湛山です。彼は、「小国論」を掲げた人でした。「一切を棄(す)つるの覚悟」うを東洋経済新報の社説で述べるのです。1921年7月23日から30日の三週にわたってでした。次のように語りました。

『我が国の総ての禍根は、小欲に囚われていることだ。志の小さいことだ。古来無欲を説けりと誤解せられた幾多の大思想家も実は決して無欲を説いたのではない。彼らはただ大欲を説いたのだ。大欲を満たすがために、小欲を棄てよと教えたのだ。~ もし政府と国民に、総てを棄てて掛かるの覚悟があるならば、必ず我に有利に導きえるに相違ない。例えば、満州を棄てる、山東を棄てる、その支那が我が国から受けつつありと考えうる一切の圧迫を棄てる。また朝鮮に、台湾に自由を許す。その結果はどうなるか。英国にせよ、米国にせよ、非常の苦境に陥るだろう。何となれば、彼らは日本にのみかくの如き自由主義を採られては、世界におけるその道徳的地位を保つ得ぬに至るからである。そのときには、世界の小弱国は一斉に我が国に向かって信頼の頭を下ぐるであろう。インド、エジプト、ペルシャ、ハイチ、その他の列強属領地は、一斉に日本の台湾・朝鮮に自由を許した如く、我にもまた自由を許せと騒ぎ起つだろう。これ実に我が国の地位を九地の底より九天の上に昇せ、英米その他をこの反対の地位に置くものではないか。』

と語りました。大きな国を目指して、産業界も軍部も、突き進む中で、こういった主張を恐れずにした湛山に驚かされるのです。時代に動きに逆らって、『否!』といえた気骨の人だったことになります。このようなジャーナリスト、政治家が、今の日本に必要とされているのではないでしょうか。一つの小話を。『国は大きいのがいいのか小さいのかがいいのか。松陰は「大きいのがいい」と言い、湛山は「小さいのがいい」と言います。そこに鼠がやってきて、「チュー」。』お後がよろしいようで。

一封信(便り)

 ◯◯◯さん

 もう故郷に帰っておいででしょうか。◯◯は、海の近くですから、きっと朝晩は涼しくしのぎやすい土地なのでしょうね。
 昨日、事務室に、「成績表」を提出しました。私が一番嫌いなことは、学生の評価なのです。誰かにAをつけ、誰かにEをつけるという作業が嫌いなので、教師には向いていないのか知れません。でも提出義務がありましたから、やっとのことで済ませました。
 今学期は、3年生の二教科を教えさせていただき、感じることが多かったのです。07級、08級、09級と教えてきたのですが、今年は、ちょっと迷ったりがっかりしてしまいました。きっと、この3月末に母が召されてしまったこともあったと思いますが、今までに無く心が落ち着きませんでした。
 でもその様な思いの中で、◯◯さんからの激励を感じたのです。一生懸命に聞いてくれている姿は、この大学で教えてから何年か経ちますが、とくに今年は、『頑張れ!』と無言の声を聞いているかのようでした。
 それで、お礼が言いたくて手紙をしたためました。今学期の評価ですが、本当は100点を付けたかったのですが、誰も完璧ではないので、これからも学ぶことが残されているという意味で、満点にはしませんでした。でも、僕の気持ちは、◯◯さんに満点をおくっているつもりです。技術や理解だけではなく、私が責任を任された教室の中での◯◯さんの存在への評価です。
 思わされたり、感じることの多かった今学期でしたが、マイナスなことを一掃してくれるほど、◯◯さんの励ましが大きかったのです。
 ぜひ4年生、最終学年もがんばってください。9月からは、「卒業論文」や「就職」などの課題の多い学年ですが、最善の導きがありますように、心から願っています。
 家内にも、あなたのを読んでもらったり、試験も答案用紙を見てもらったりしました。彼女も、あなたへの評価がずいぶんと高いと思います。これを激励に、これからの人生をがんばってください。陰ながら応援しています。
 今年は、遼寧省と内蒙古を旅行しようと思っています。その後、来学期の準備などで、日本に帰ろうかと思います。家内はこちらで用があるので、残ると言っていますが、もしかしたら、どこかにに行くかも知れません。
 夏休みは何をされるのですか。◯◯は、◯◯に行った時に通過しただけですが、内陸部に畑が散在していて、南国のようでした。海も綺麗なのでしょうね。何時か、◯◯さんを育てた◯◯には、行ってみたいなと思っています。         
 好い夏期休暇をお過ごしください。
 お父様やお母様にも、僕が励まされた経緯をくれぐれもよろしくお伝え下さい。
 失礼します。 
                    2012年6月26日

(写真は、華南の海の夕べの風景です)

端午節

中学校3年間、学級担任をして下さり、社会科(日本史、世界史、日本地理、世界地理、政治経済、倫理など)を教えてくれたK先生が、私の将来の進路を決めてくれたといえるでしょうか。それほど大きな影響を受けたからです。他の教科では味わったことがないような、『授業が待ち遠しい!』という、ワクワクするような気持ちが、K先生の授業にはありました。学級の朝礼や終礼での話も、ただに事務的な話をされるのではなく、時事を話してくれ、世の中を知らせてくれたのです。一言で言うと、12才の坊主どもに、「一生懸命」に教えようと様々に工夫や準備をしてくれたのが分かったからです。その上、生意気だった私を、懇切丁寧に指導してくれた教師でした。

どこに行ったのか覚えていませんが、遠足のバスの中で、マイクを持った私は、「可愛いスーチャン(作詞・作曲者:不詳)」を歌ったのです。

1 お国の為とは言いながら  人の嫌がる軍隊に
召されて行く身の哀れさよ  可愛いスーチャンと泣き別れ
2 朝は早よから起こされて  雑巾がけやら掃き掃除
嫌な上等兵にゃいじめられ  泣く泣く送る日の長さ
3 乾パンかじる暇もなく 消灯ラッパは鳴りひびく
五尺の寝台わら布団  ここが我らの夢の床
5 海山遠く離れては  面会人とてさらに無く
着いた手紙の嬉しさよ  可愛いスーチャンの筆の跡

とです。誰かに教えられて、まあ得意になって歌っていたのです。これをK先生が聞いて、本当に難しい顔をされたのです。その表情を見て、『しまった!』と思ったのですが、歌い終わってからでは、どうにもなりませんでした。戦争体験をした恩師の前で、こんな惨めな兵隊の歌を歌った私は、『いけなかった!済まない!』という気持ちにされたのです。

父は兵隊には行きませんでしたから、軍隊生活をしていないのに、この歌を何処で覚えたか記憶がありません。「背伸び」というのでしょうか、苦い煙草も酒も、手にしてみたい、生意気盛りの中学生でした。我々の世代は、「赤紙」一枚で戦争に駆り出され、戦場でお父さんを戦死して失った同級生の多い世代でした。子供の頃に、お父さんの「軍帽」をかぶってちゃんばらごっこをやったと言ってた同級生もいたのです。父がいた私には、彼らの喪失感はわかりませんで、そんな彼らの交じるバスの中で、「可愛いスーチャン」はなかったのではないかと、今、思い出して、赤面の至りです。

もうみんな、顔に深いシワを入れ、髪の毛も薄くなり白髪になって、孫の世話を終えようとしていることでしょうか。昨日は、家内が教えている学生が来ていて、「端午節」でもありましたので、『柱のキズもおととしの・・・』と歌っていましたら、日本の「端午の節句」と、中国の「端午節」とは違うのだと気付いたのです。もちろん「新暦」と「農暦(旧暦)」の日にちの違いがありますが、日本では、男児の成長を願う「こどもの日」で、「端午節」は、屈原の死を悼む記念日なのです。紀元前3世紀ころの話ですが、日本に伝わると、日本的に変えられていくのが、面白いと思うのです。一人っ子たちが、「キョトン」とした顔で聞いていました。そうしましたら、孫たちの顔が思い出され、彼らの健全な成長を願ったことでした。ただ、ジイジのように生意気にならないようにと思いながら。それにしても、頂いた「粽(ちまき)」が食べ切れません。

(写真は、端午節恒例の「ドラゴン・ボート(赛龙舟)」の競技です)

教育

 ユダヤに、次のような格言があります。

      若者を、その行く道にふさわしく教育せよ。
      そうすれば、年老いても、それから離れない。

 子どもの頃に、よく言い聞かされたのは、『三つ子の魂百まで!』というのがありましたが、似ているでしょうか。英語圏のことわざで、日本語訳されたものに、『鉄は熱いうちに打て!』があリます。これらは、若く純粋で、柔軟性のある日々に習得したものは、一生モノだということになるでしょうか。

 ルーマニアにチャウセスクという大統領がいました。1989年12月でしたが、彼の最後を写した映像を、テレビ番組で観た時に、とても大きなショックを受けたのを覚えています。夫人と共に、民主運動の中で、公開処刑されて、その亡きがらが映されていたからです。ずいぶんと生臭い報道に驚いたのです。なぜ彼の話なのかといいますと、彼を警護する《衛士》のことを聞いて、『そうだったのか!』と、思ったからです。ガードマンとか秘密警察とか言ったほうがいいかも知れませんが、彼らの多くが、「孤児」だったそうです。親の愛を知らない幼い彼らを、自分の手元において、忠誠を捧げつくす集団を作ったのです。独裁者の彼が、身の危険から自らを守るために考えだしたシステムでした。肉親からの愛を知らない彼らを、父や母のように、とことん愛したのです。肉親の愛に飢え渇いていた彼らは、愛してくれる「父」のために、いのちを投げ出して仕えたのです。

 こういった組織を作り出す智恵というのは、独裁者が独特に考えだすもののようです。自分に決して危害を及ぼしたり、謀反を起こすことのないもの者たちこそ、最高の《砦》になるからです。これもまた教育といえるのではないでしょうか。一人のエゴのために、人の一生を変形させてしまうという、極めて悪い教育実践例なのです。

 この格言ですが、「教育」の効果というのは、「年老いて」からあらわされるることだといっているのです。私の小学校時代の教師に、男性教師が二人いました。Nせんせいはは、音楽教師で、蝶ネクタイをしていましたから、当時としてはダンディーだったのです。仕事を終えると、この先生は、酒屋をやっていいる級友の店に寄って、コップ酒を飲むのが常でした。どのような経緯か、子どもの私にはわかりませんでしたが、良い印象がありませんでした。ある日、授業が終わって、掃除の時間に、叩きを持っていた先生が、理由を説明しないで、私を叩いたのです。理由がわかっていたら当然叩かれてもいいのですが、その時は目を剥いて何度も叩いたのです。これが未だに腑に落ちないのです。殴られ受け意見というのは、よくありましたから、他のすべては十二分に納得していましたが、これは例外でした。《どうしてでしたか?》と、あって聞こうと思いましたが、その機会はありませんでした。母くらいの年齢でしたから、もう亡くなっておいででしょう。

 こういった経験は、自分のうちで解決しないと、一生引きずるのかも知れません。N先生も、「戦争」という異常事態を越えてきたのでしょう。『戦地で異常体験をし、精神的に不安定になって復員して、教職に戻ったのだろう。だから、あんなによく短気を爆発したんだ!』と、勝手に理解することにして、恨みを解消しましたから、キズは癒えてると思うのです。相手の謝罪は不要です。私は教師から良い影響を受け、ある教師から、こういった経験をし、自分も教師をし、きっと悪い影響だって与えているかも知れません。自分のN先生と同じで短気だったからです。今は、少し良くなっているかどうかは、、家内に聞いてみないと・・・・。人の行く道には、「ふさわしい道」があるのですね、その道を踏み行くために、《健全な教育》がなされるようにと願う、夏休み前であります。

(写真は、岡山県備前市にある世界最古の庶民の「学校」です)

アリラン

 どの国にも、民族にも代表的な歌があります。これは、朝鮮民族の有名な歌(民謡)、「アリラン」です。それは峠の名前ですが、意味は諸説あって特定できないのだそうです。

アリラン アリラン アラリヨ
アリラン峠を越えて行く
私を捨てて行かれる方は
十里も行けずに足が痛む

アリラン アリラン アラリヨ
アリラン峠を越えて行く
晴れ晴れとした空には星も多く
我々の胸には夢も多い

アリラン アリラン アラリヨ
アリラン峠を越えて行く
あそこ、あの山が白頭山だが
冬至師走でも花ばかり咲く

 私の父が、『・・・アラリヨ アリランコウゲイロ ノモカンダ・・・』と、よく口遊んでいたのを聞いたものです。父の出自が、朝鮮半島だからではありません。『俺は、鎌倉武士の末裔だ!』と言って、唯一の誇りにしていましたから、確かだと思います。ただし、それ以前、朝鮮半島か中国大陸から渡来したかどうかは、分かりませんが。まあ、私たちは、「高天原(たかまがはら)」に降り立った神々の子孫ではなく、イルクーツクや中国や朝鮮や南方からやってきて、日本列島に住み着いた者たちの血を受け継ぐ末裔であることだけは確かだと思います。

 戦時中、仕事の関係で京城にいたことがあったので、その思い出が深くて、よく口遊んでいたのです。哀調のあるメロディーで、日本の民謡や歌謡曲(演歌といったほうがいいでしょうか)に通じるもののようです。今、私たちの住んでいるアパートのベランダから道路を挟んだ向こう側に、広場と公園があります。夕方になると、レコードを掛けて、三々五々と集まって来られるご婦人たちが、楽しそうに踊りをしているのです。その曲が、子どもの頃に盆踊りで流れていたメロディーにそっくりなのには驚かされています。横笛や琴のような楽器が奏でられている曲ですから、『ピーヒャラ、ピーヒャラ』と聞こえてきて、田舎を思い出させられております。

 中国大陸、朝鮮半島、日本列島と、東アジアに住む私たちは、様々に似ているのではないでしょうか。戦争が終わって、かなりの年月がたつのですから、過去から将来に目と心を向け直して、お互いに励まし合って、それぞれに楽しく生きていくとが最善だと思うのですが。

 昨日あるコラムを読んでいましたら、中国から来られた青年が、高知の桂浜にある坂本龍馬の銅像の前に跪いて、『アジアの先駆者!』と涙を流して語ったのだそうです。このことを知った司馬遼太郎が、産経新聞に「竜馬がゆく」の連載小説を書く決心をしたのだそうです。高杉晋作が、上海に密航して、そこでアヘンに苦しむ中国人の姿を見て、欧米の精力の脅威を感じました。『日本も、このままだと同じようになる!』と危機を覚え、尊皇攘夷、開国を決意したのです。中国青年が、涙を流しながら、龍馬を「アジアの先駆者」と語りかけたのは、1960,61年の頃だと思われますから、半世紀ほど前に来日した中国人の言動には、今では想像もしえない親日の情を表したことになります。

 そんなことで、私も目をつぶりながら、父の歌っていた「アリラン」を、朝鮮語で途中まで覚えているので歌ってみました。みだ見ぬ「白頭山(長白山)」が、富士山に重なりながら目に浮かんでくるようでした。

(写真は、HP〈ヤサシイエンゲイ〉から、「ムクゲ(大漢民国の国花)」です)

石坂文学

 石坂洋次郎の青春小説に、どっぷり浸かってしまった時期がありました。何しろ面白かったのです。読み終わると本屋に跳んでいって文庫本を買い求める、これを繰り返していました。抱腹絶倒したこともありました。また思い出し笑いもしていたようです。高校を卒業する前後のことで、受験勉強からの「逃避行動」だったので、とても自由な空気を深く吸い込むことが出来た時期だったのです。ある作品の中に、剣道だか柔道の先生と修身の先生が、町の銭湯に入る件(くだり)がありました。番台に座る風呂屋の息子に、それぞれの先生の《大きさ》を聞くと、予想に反して『修身の先生のほうが・・・!』と答えるあたりは、シモネタではありましたが、決していやらしくない表現で、笑い転げてしまった覚えがあります。

 石坂は、慶応大学を卒業すると、青森県の弘前中学、弘前高等女学校、そして秋田県の横手高等女学校の国語の教師として奉職しています。その教師の経験から、学園モノを書き続け、多くの作品が映画化されたりして、売れっ子作家でした。彼の作風が健全なので、それが高く評価され、賞もとったようです。中でも一番人気は、「青い山脈」でした。今でも読まれているのでしょうか。1949年には、原節子や池部良の出演で映画化され(都合5回も映画化されているようです)、また西條八十・作詞、服部良一・作曲で、歌でも歌われています。
        
若く明るい 歌声に
雪崩(なだれ)は消える 花も咲く
青い山脈 雪割桜
空のはて 今日もわれらの 夢を呼ぶ

古い上衣(うわぎ)よ さようなら
さみしい夢よ さようなら
青い山脈 バラ色雲へ
あこがれの 旅の乙女に 鳥も啼(な)く

雨にぬれてる 焼けあとの
名も無い花も ふり仰ぐ
青い山脈 かがやく嶺(みね)の
なつかしさ 見れば涙が またにじむ

父も夢見た 母も見た
旅路のはての そのはての
青い山脈 みどりの谷へ
旅をゆく 若いわれらに 鐘が鳴る

 戦争が終わった後に、この快活で明るい青春映画は、日本の多くの青年の心を捉えてしまい、日本映画史上の名作に数えられています。私たちよりだいぶ前の世代の映画ですが、ビデオで観たことがあります。物には欠乏していましたが、若い力がみなぎっていた良い時代だったのでしょうか。

 また何時か、日本に帰りましたら、昔読んだ彼の作品を、図書館から借り出して読んでみたいものです。現実ばかりが注目されて、「夢」が少ない時代になりましたから、この時代の青年たちには、「古典」を読むと同時に、古き良き時代の傑作、「若い人」なんか読んでみたらいいのに、と勧めたいものです。この「若い人」は、横手高女時代に書き続け、昭和8年から12年までの間、「三田文学(慶応大学)」に断続的に連載されたものです。石坂は後になって、『当時の暗い実生活から抜け出したいために、華やかで放恣(ほうし)で無惨で美しい人間の崩れいく精神と肉体の歴史を綴りたかった。』と語っています。恋愛など、ご法度の時代に、時代に対するささやかな文学者の抵抗が、こういった小説を書かせのでしょう。何でも言える時代になったのはいいのですが、無秩序で非建設的な主張で騒々しい今より、よかったかも知れませんね。

(写真は、石坂洋次郎が教鞭をとった横手市の横手公園の「かまくら」です)

「堕落」

高橋和巳が著した「堕落」という小説を読んだことがあります。もう随分昔のことです。衝撃的な人生の結末を迎えてしまう一人の男の半生が描かれていました。

主人公は、青木隆造、彼は、日本人が「五族協和」と「王道楽土」という標語を掲げて建設に取り掛かった「満洲国」の建設に、自分の若さも情熱も、青春そのものを捧げたのです。しかし敗戦ということで、その夢が崩壊してしまい、日本に引き上げてきます。「償い」の気持ちでしょうか、彼は終戦後、日本の社会に産み落とされる「混血児」の世話をする「兼愛園(社会事業施設)」を建て上げ、園長として働きます。戦後の占領政策がもたらした、捨てられた日米混血の子どもたちの世話でした。青木の働きを考えてみますと、日本が進出していった中国大陸や東南アジアの国々にも、同じようにして生まれた子どもたちがいて、その数は、統計に残りませんが、数えきれないものがあったのではないかと思います。キラキラして青春をかけた国家建設とは真反対な世界、どんよりと曇って陽のあたらなく感じられる社会事業の世界で、地道に時代の落とし子たちの世話を続けてきたのです。ある新聞の社会事業部門の表彰に、彼と彼が長年仕えてきた施設が功労者として選ばれるのです。彼はその表彰式に、共に働いてきた部下の女性と出席します。その晩、昔の仲間からも「お祝い会」を開いてもらうのです。

苦労が報われ、社会的に認知された時、彼の戦後の生活がもろくも崩れていくのです。陰でなされてきた善行に、光が当てられた時に、彼の生き方が露わにされてしまうわけです。精神を病む妻と、孤児たちの世話を続けてきた彼は、真面目な戦後を生きてきたのです。式の行われた夜、泊まっていたホテルで、その部下を犯してしまいます。懐に賞金を入れ、盛り場を徘徊していると、不良グループ(チンピラ)に絡まれ、懐の金を狙われるのです。正気でいられなくなった彼は、「昔取った杵柄(きねづか)」、手にしていた傘を腰に当てると、一人の若者を、『・・・人を殺すというのはこうするものだ!』と言いながら、刺し殺してしまうのです。正当防衛といえば言えそうですが、人を殺す犯罪を犯してしまうのです。

彼の青年期も、「若気の至り」で、大陸では、人には言えないような罪を犯していたのに違いありません。その青年たちと自分は違うのだという思いが、頭をもたげてきて、つい、昔の行動を制御できずに、そうしてしまったのです。

痛む虫歯に痛み止めを詰めて、金環をかぶせてしまったら、それは治療にはなりません。病巣が隠され覆われただけだからです。戦時中の蛮行や犯罪が正しく処理されないで、うやむやのまま戦争を終えて、帰還してしまった後、たしかに社会事業という、社会の片隅で働き邁進してきた動機が、明らかにされてしまうのです。人の「過去の過ち」が、正しく精算されていないで、覆っただけで時を過ごしても、解決にされていないなら、再び、同じ問題が起こりうるのだということを知って、私は慄然としてしまいました。

国家が犯した戦争犯罪、組織が犯した犯罪というのは、どういうふうに問われるべきなのでしょうか。「東京裁判」や、その他の裁判で、裁ききれていないものは不問に付してしまっていいのでしょうか。賠償金の支払いで終わるのでしょうか。過去が遠のき、友好というベールで隠蔽されたとしても、殺したり、盗んだり、騙したりした過去は、きっといつか声を上げるのではないでしょうか。「終わってしまったこと」が、うめき声を上げているように感じてならないのです。南京でも平頂山でも「虐殺」があったことは歴史の事実です。数の問題はともかくとして、事実は事実です。また満州で、医学という隠れ蓑で行われた人体実験の犠牲者は、数多いと聞きます。一連の犯罪の責任の所在は、どこに求められるのでしょうか。

青木隆造の過去と今、その小説を読んだ私は、30年もたった今でさえも、深く考えてしまうのです。「処理されていない過去」が、人の人生を暴くように思えるのです。だいぶ厳粛なことですが、ここ中国で、平和に暮らしている私ですが、『軍隊という組織が犯した犯罪は、どうなるのだろううか?』と、戦争や紛争のニュースを耳にするたびに、考えてしまいます。加害者が死んでしまったら、終わっていいとは思わないからです。この時代の私たちは、そういった問題意識を持つべきだと思うのです。『となり町の井戸に日本軍が毒を入れたんです!』と言った昔話を聞いたこともあるからです。青木隆造もまた、戦争の落とし子で、《時代の子》だったのでしょうか。

(写真は、父が青年期に過ごした「奉天(現在の瀋陽)」を撮った「はがき」です)