中学校3年間、学級担任をして下さり、社会科(日本史、世界史、日本地理、世界地理、政治経済、倫理など)を教えてくれたK先生が、私の将来の進路を決めてくれたといえるでしょうか。それほど大きな影響を受けたからです。他の教科では味わったことがないような、『授業が待ち遠しい!』という、ワクワクするような気持ちが、K先生の授業にはありました。学級の朝礼や終礼での話も、ただに事務的な話をされるのではなく、時事を話してくれ、世の中を知らせてくれたのです。一言で言うと、12才の坊主どもに、「一生懸命」に教えようと様々に工夫や準備をしてくれたのが分かったからです。その上、生意気だった私を、懇切丁寧に指導してくれた教師でした。
どこに行ったのか覚えていませんが、遠足のバスの中で、マイクを持った私は、「可愛いスーチャン(作詞・作曲者:不詳)」を歌ったのです。
1 お国の為とは言いながら 人の嫌がる軍隊に
召されて行く身の哀れさよ 可愛いスーチャンと泣き別れ
2 朝は早よから起こされて 雑巾がけやら掃き掃除
嫌な上等兵にゃいじめられ 泣く泣く送る日の長さ
3 乾パンかじる暇もなく 消灯ラッパは鳴りひびく
五尺の寝台わら布団 ここが我らの夢の床
5 海山遠く離れては 面会人とてさらに無く
着いた手紙の嬉しさよ 可愛いスーチャンの筆の跡
とです。誰かに教えられて、まあ得意になって歌っていたのです。これをK先生が聞いて、本当に難しい顔をされたのです。その表情を見て、『しまった!』と思ったのですが、歌い終わってからでは、どうにもなりませんでした。戦争体験をした恩師の前で、こんな惨めな兵隊の歌を歌った私は、『いけなかった!済まない!』という気持ちにされたのです。
父は兵隊には行きませんでしたから、軍隊生活をしていないのに、この歌を何処で覚えたか記憶がありません。「背伸び」というのでしょうか、苦い煙草も酒も、手にしてみたい、生意気盛りの中学生でした。我々の世代は、「赤紙」一枚で戦争に駆り出され、戦場でお父さんを戦死して失った同級生の多い世代でした。子供の頃に、お父さんの「軍帽」をかぶってちゃんばらごっこをやったと言ってた同級生もいたのです。父がいた私には、彼らの喪失感はわかりませんで、そんな彼らの交じるバスの中で、「可愛いスーチャン」はなかったのではないかと、今、思い出して、赤面の至りです。
もうみんな、顔に深いシワを入れ、髪の毛も薄くなり白髪になって、孫の世話を終えようとしていることでしょうか。昨日は、家内が教えている学生が来ていて、「端午節」でもありましたので、『柱のキズもおととしの・・・』と歌っていましたら、日本の「端午の節句」と、中国の「端午節」とは違うのだと気付いたのです。もちろん「新暦」と「農暦(旧暦)」の日にちの違いがありますが、日本では、男児の成長を願う「こどもの日」で、「端午節」は、屈原の死を悼む記念日なのです。紀元前3世紀ころの話ですが、日本に伝わると、日本的に変えられていくのが、面白いと思うのです。一人っ子たちが、「キョトン」とした顔で聞いていました。そうしましたら、孫たちの顔が思い出され、彼らの健全な成長を願ったことでした。ただ、ジイジのように生意気にならないようにと思いながら。それにしても、頂いた「粽(ちまき)」が食べ切れません。
(写真は、端午節恒例の「ドラゴン・ボート(赛龙舟)」の競技です)