家内は、『なに人、なに民族なんて言って、ナショナリティーにこだわリ過ぎるのはどうかと思うわ!』という、全球的なものの考え方をする女性です。たしかに『日本人なんだから!』という特権意識は、他国人を拒む排他意識を持つことになってしまいます。そういった思いは、国家や民族や言語を超えた「友情」を築いていくためには邪魔になってしまいます。私の父や母の時代には、『日本人たれ!』と言われて、我慢や耐乏を強いられたと聞きます。またそれは、日本人としての枠付けであって、『わが民族の優秀性を誇り、他を威圧して生きよ!』と求められたわけです。それは各人の選び取りや決心ではなく、国家や社会から強要されたものだったのかも知れません。
石橋湛山というジャーナリスト(後に短命な内閣の総理大臣にもなりますが)は、実に広い心をもって、社会全体を鳥瞰できる方だったようです。共産主義に傾倒した人たちの思想行動を、『赤!』といって、弾圧して厳しく取り締まった「特高(特別高等警察)」や「治安維持法」があった暗い時代に、『信じたいものを各人が自由に選んで信じたらいいのです。それが良いか悪いのかの判断は時代が決めるのだから!』と言っています(出典を見つけられないので、私が覚えてる表現ですので念のため)。
アメリカの様な民主主義国家でも、「赤がり」ということが行われて、逸材を死に追いやった悲しい歴史があります。何を恐れたのでしょうか、ただ悲惨なことだけが歴史に記録されただけではないでしょうか。全球的な動きを、グローバリズムというのでしょうか、《地球人》とか《国際人》という考えをもって、違ったた思想や生き方を受け入れていくなら、戦争なんか起こらなくなるのではないでしょうか。だから家内の考え方の広さや大らかさは、正しいのだと思うのです。
だからといって、自分の国を愛したり、自分の出自を誇ったりする思いを捨てる必要はないと思うのです。父母や祖父母や曽祖父母などから受け継いだものは、《独特無二》であって、それを否定することはできません。自分の国を愛することは、軍国主義の復活になるとの考えは、狭量に過ぎます。「日章旗」の国旗を掲揚することは、右翼の行動になるのでしょうか。「君が代」を国歌として歌うことは天皇制讃美になるのでしょうか。スポーツの時だけ、国旗の掲揚や国歌斉唱が許され、教育の現場では、これがなされることを認めない教師がいるのは、どうしてなのでしょうか。
どの国でも、自分の生まれた国を愛し、育った国への忠誠心をもっことを願って、教育がなされています。日本は、戦争に負けたので、過去をすべて否定しなければならないのでしょうか。どの国にも、どの民族にも恥な過去があります。そのことだけに拘泥して、青少年たちが自信をなくしてしまったら、父や母から受け継いだ、母国を建て上げていくことも、産業を興隆することもできなくなってしまいます。
自分の生まれ育った国を、しっかり愛することができて初めて、他国と友好な交流をしていくことができます。他の独自性を認められるからです。同化することが、目的ではないのです。互いの違いを知った上で、関係を構築していくことができるのです。
日本文化を「自傷文化」、また日本人の歴史の見方を「自虐史観」という文化人がおいでです。自殺者が多いのは、日本に限ったことではなく、世界全体が生命軽視の傾向にあるのです。私は、《男性性》を確かにし、日本人の強さも弱さも学び、中国や韓国やアメリカの優秀性を認められる人間として、教育を受けてきました。このことを、父や教師たちに感謝するのです。歴史の事実を認めて反省はしますが、自虐には陥りません。父と母から受けたこの体に、刃物を向けて傷つけたりもしません。もちろん心にも。
中学の時に担任で社会科の教師だった恩師は、『日本人は鎌倉時代には、自由闊達に、ノビノビと生きていたのです!』と教えてくれました。男も女も、自信を持って生きていたことになります。さて、21世紀を生きていく日本の青少年が、誇り高く、気高く、そしてノビノビと生きていくことを、心から願うのです。それこそが、自分をありのままで受け入れ、自分を愛し、自分と違った他者を受け入れられるからであります。
(写真は、http://komekami.sakura.ne.jp/wp-content/uploads/P4199803.jpgの鎌倉時代を彷彿とさせる「流鏑馬(やぶさめ)」です)