水無月

 瀬戸内海には数多くの島が散在しています。27,8年前になりますが、九州の熊本に行くために、瀬戸内海を渡ったことがありました。まだ本四連絡橋が出来る前だったので、姫路からフェリーに乗り、小豆島に上陸し、小豆島の土庄(とのしょう)港から四国に渡ったのです。いつでしたか、「波止場しぐれ」という歌謡曲が流れていたのを聞きましたら、その歌の中に「土庄港」の名前が出ていたので、『あっ、そうか。あの時フェリーに乗ったのが土庄だったんだ!』と思い出して、興味深く、この歌を聞いたのです。

1 波止場しぐれが 降る夜は
  雨のむこうに 故郷が見える
  ここは瀬戸内 土庄(とのしょう)
  一夜泊りの かさね着が
  いつかなじんだ ネオン町


2 肩に重たい 苦労なら
  捨てていいのよ 拾ってあげる
  ここは瀬戸内 土庄港
  のんでおゆきよ もう一杯
  浮世小路の ネオン酒

3 あれは高松 最終便
  グラス持つ手に 汽笛がからむ
  ここは瀬戸内 土庄港
  恋も着きます 夢もゆく
  春の紅さす ネオン町

 

 1985年に、作詩・吉岡治、作曲・岡千秋 、歌・石川さゆりでヒットした歌謡曲だったようです。いわゆる艶歌そののものですが。その頃に、上の二人の子を連れて、下の兄にもらったオンボロ自動車を運転しての旅の途中、「土庄港」からフェリーに乗ったのを思い出したのです。熊本に着いた時、『こんな車でよく来ましたね!』と驚かれたのですが、車の外側の塗装に錆が浮き出ていましたから、そう言われたのですが、車の性能は抜群でした。そういえば、これまで、新車と高級車には乗ったことがないのです。中古市場で買ってもらったとか、お下がりの車ばかりで、人にも上げたこともありました。『動けばいい!』といった考えでしたから、『羨ましい!』と思ったことも、『欲しい!』と思ったこともありません。4人の子育て中でしたから、そんな贅沢は言っておられませんでした。

 こちらに来てから、この6年間、車を持つことも運転することもなくなってしまいました。大雨が降ったり、強い風が吹くと、走っている車を見ながら、『車があったらなあ!』と思ってしまうのですが、そういったときはタクシーや公共バスを使えばいいわけですから、すぐに諦められるのです。それでも40年も運転してきましたから、たまに乗る自転車よりは自家用車がいいに決まっているのです。でも多くの友人たちが、『こちらでは車は運転しないほうが賢明ですよ!』と言われています。留学していった学生が置いていった自転車が、現在のマイカーなのです。その小豆島を通過した時に、「二十四の瞳」の舞台となった島であったことを忘れていて、小学生の二人の子と一緒に訪ねることをしなかったのです。今でも、それが悔やまれてなりません。はやく四国に上がって、西端の八幡浜から別府に渡ることばかりを考えていて、旅を楽しまなかったのです。損な性分だと、つくづく思います。今度、小豆島を訪ねる機会があったら、《行き当たりばったり》でないようにと願っています。事前に、しっかり「二十四の瞳」の映画を見なおし、情報を調べて出かけたいと思っています。

 先週末、二人の客人の訪問がありました。過分なことばでほめられたのですが、私の実態は、短気で喧嘩早く、せっかちで衝動的なのです。そんな自分に愛想を尽かしながら、家族や兄弟や友人や知人に迷惑をかけて、今日まで生きてきたのです。聞くところによりますと、老人が、最近は《切れ易く》なっているのだそうですね。そういえば、私の愛読書には、「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。 」と書いてあります。これを教訓に、迷惑をかけた妻や子どもたちに詫びて、再度、褌を締めなおしている「水無月(みずなしづき/みなづき)」であります。

(写真は、http://kiwihusband.at.webry.info/201007/article_4.htmlの「土庄港」です)

向こう三軒両隣

 

 日本人の優れている点が、外国人の関心を呼んでいます。昨年の「東日本大震災」の被災地で、被災された方々の様子が注目したからです。慌てることなく冷静沈着にことを処してしている姿に驚かれたのです。とくに、利己的になりやすい情況で、我先に物を求めたりするのが常ですのに、他者を優先して譲ったり、もらったおにぎりを《半分こ》にして分け合ったり、《助け合い》をしている姿が注目されて、『日本人ってすごい!』と賞賛しておられました。

 貧しかったからでしょうか、私たちの国では、相手を顧みようとする思いが育まれてきたのではないかと思われます。結合とか団結の「結」の字を、「ゆい」と読み、その《結》という助け合いが、農村などで行われていました。茅葺の屋根を何十年に一度とかで葺き替えなければならなかった時代、村じゅうの人が無休で奉仕して、この作業にあたったのですが、その強力の姿を「結」と読んだのです。また漁業従事者たちの世界では、「もやい」ということが行われてきたと言われています。船と船をつなぎ合わせたり、船の纜(ともづな)を岸につなぐことを、「もやう(舫う)」というのですが、この動詞からでききたことばで、魚民同士の助け合いを、そう呼んできたのです。

 その他には「講(こう)」と呼ばれるものもあったようです。これは、元々は仏教信者の会合を、そう呼んだのですが、後になって、お互いが助けあう組織に変わっていき、それを「講」と言うようになってきているのです。こういった「ことば」が残っているということは、日本の社会の隅々までに、「相互扶助」の心が養い育てられ、互いに支えながら、支えられながら生きてきた生活史があったということになります。近年、都市化の動きの中で、こういった《互助の心》が消えてきて、人々は孤立化してきているのでしょうか。またこれに変わって、専門的な職業が成り立ってきて、すべてがお金で解決される社会になってきてしまったようです。

 私の恩師がこのことを、1つの「ことば」で紹介しておられます。「互酬(ごしゅう)」です。こうおっしゃっておいでです。

 『私たち日本の社会には、昔からお互いに報いあう「互酬」という習慣があります。田植えを手伝ってもらったら、収穫は手伝いに行く。あるいは結婚式にご祝儀を持っていき、お返しに引き出物をいただくなど。いわゆるお返し主義です。日常での互酬は、物品のやりとりですが、市場に並ぶ商品とは違い、人間の優しさや温かい心が通っています。これが互酬の大きな特色です。このお返しは、助け合いの心を多分に含んでいます。被災地では、被災者の方々は互いに助け合い、それだけでなく、自分たちの食べ物がないにも関わらず、救援に来た米軍の兵士に飴を配ったというところまで展開されています。

 この互酬は、個人だけでなく自治体も同じです。例えば、東日本大震災では、新潟県の28市町村 は、すぐに14,000名の避難者を受け入れる決議をしました。中越地震のときに助けてもらったからです。函館の漁協が226隻の漁船を岩手県に寄贈しま した。これは昭和9年の函館大火で岩手県にお世話になったからだというのです。

 そして、互酬は変化を遂げているといえます。93年の北海道の奥尻島の地震のとき、特別養護老 人ホームへ、一人のご老人が奥尻の義援金を届けに来てこうおっしゃいました。「関東大震災で助けられたお礼のお返しをしたかった」と。当事者ではなく見ず 知らずの奥尻へお返しにきたのであります。福祉の心とは、まさにこのように見ず知らずの人への働きかけなのです。

 考えてみると献血も互酬でした。昔は、献血手帳があり、自分が献血した血液量と同量の血液を必 要とするときに優先的に確保すると書いてありました。そういう約束事がなくなった現在、600万人が献血しています。これだけ人々の気持ちが広がっている ということです。私は日本社会というのは、互酬性を大事にしながら、助け合いの文化を拡大していくことが課題だと思います。

 

 醤油や味噌や塩を、隣に狩借りに行ったり、貸したりした子どもの頃が懐かしいのは、我々の世代の思い出なのかも知れません。そんな雰囲気が、このところ日本の社会に蘇ってきているのでしょうか。わが家の周りに何軒か、物のやり取りをする家が与えられています。『おばあちゃんが作りましたので!』と、「豆腐」が、二度ほど届けられてきています。それで家内は、「巻きずし」を作ってお返しをしていました。これが、華南のわが家の《向こう三軒両隣》であります。

(写真は、HPhttp://naka-zizi.at.webry.info/200711/article_18.htmlの「艫綱」です)