「堕落」

高橋和巳が著した「堕落」という小説を読んだことがあります。もう随分昔のことです。衝撃的な人生の結末を迎えてしまう一人の男の半生が描かれていました。

主人公は、青木隆造、彼は、日本人が「五族協和」と「王道楽土」という標語を掲げて建設に取り掛かった「満洲国」の建設に、自分の若さも情熱も、青春そのものを捧げたのです。しかし敗戦ということで、その夢が崩壊してしまい、日本に引き上げてきます。「償い」の気持ちでしょうか、彼は終戦後、日本の社会に産み落とされる「混血児」の世話をする「兼愛園(社会事業施設)」を建て上げ、園長として働きます。戦後の占領政策がもたらした、捨てられた日米混血の子どもたちの世話でした。青木の働きを考えてみますと、日本が進出していった中国大陸や東南アジアの国々にも、同じようにして生まれた子どもたちがいて、その数は、統計に残りませんが、数えきれないものがあったのではないかと思います。キラキラして青春をかけた国家建設とは真反対な世界、どんよりと曇って陽のあたらなく感じられる社会事業の世界で、地道に時代の落とし子たちの世話を続けてきたのです。ある新聞の社会事業部門の表彰に、彼と彼が長年仕えてきた施設が功労者として選ばれるのです。彼はその表彰式に、共に働いてきた部下の女性と出席します。その晩、昔の仲間からも「お祝い会」を開いてもらうのです。

苦労が報われ、社会的に認知された時、彼の戦後の生活がもろくも崩れていくのです。陰でなされてきた善行に、光が当てられた時に、彼の生き方が露わにされてしまうわけです。精神を病む妻と、孤児たちの世話を続けてきた彼は、真面目な戦後を生きてきたのです。式の行われた夜、泊まっていたホテルで、その部下を犯してしまいます。懐に賞金を入れ、盛り場を徘徊していると、不良グループ(チンピラ)に絡まれ、懐の金を狙われるのです。正気でいられなくなった彼は、「昔取った杵柄(きねづか)」、手にしていた傘を腰に当てると、一人の若者を、『・・・人を殺すというのはこうするものだ!』と言いながら、刺し殺してしまうのです。正当防衛といえば言えそうですが、人を殺す犯罪を犯してしまうのです。

彼の青年期も、「若気の至り」で、大陸では、人には言えないような罪を犯していたのに違いありません。その青年たちと自分は違うのだという思いが、頭をもたげてきて、つい、昔の行動を制御できずに、そうしてしまったのです。

痛む虫歯に痛み止めを詰めて、金環をかぶせてしまったら、それは治療にはなりません。病巣が隠され覆われただけだからです。戦時中の蛮行や犯罪が正しく処理されないで、うやむやのまま戦争を終えて、帰還してしまった後、たしかに社会事業という、社会の片隅で働き邁進してきた動機が、明らかにされてしまうのです。人の「過去の過ち」が、正しく精算されていないで、覆っただけで時を過ごしても、解決にされていないなら、再び、同じ問題が起こりうるのだということを知って、私は慄然としてしまいました。

国家が犯した戦争犯罪、組織が犯した犯罪というのは、どういうふうに問われるべきなのでしょうか。「東京裁判」や、その他の裁判で、裁ききれていないものは不問に付してしまっていいのでしょうか。賠償金の支払いで終わるのでしょうか。過去が遠のき、友好というベールで隠蔽されたとしても、殺したり、盗んだり、騙したりした過去は、きっといつか声を上げるのではないでしょうか。「終わってしまったこと」が、うめき声を上げているように感じてならないのです。南京でも平頂山でも「虐殺」があったことは歴史の事実です。数の問題はともかくとして、事実は事実です。また満州で、医学という隠れ蓑で行われた人体実験の犠牲者は、数多いと聞きます。一連の犯罪の責任の所在は、どこに求められるのでしょうか。

青木隆造の過去と今、その小説を読んだ私は、30年もたった今でさえも、深く考えてしまうのです。「処理されていない過去」が、人の人生を暴くように思えるのです。だいぶ厳粛なことですが、ここ中国で、平和に暮らしている私ですが、『軍隊という組織が犯した犯罪は、どうなるのだろううか?』と、戦争や紛争のニュースを耳にするたびに、考えてしまいます。加害者が死んでしまったら、終わっていいとは思わないからです。この時代の私たちは、そういった問題意識を持つべきだと思うのです。『となり町の井戸に日本軍が毒を入れたんです!』と言った昔話を聞いたこともあるからです。青木隆造もまた、戦争の落とし子で、《時代の子》だったのでしょうか。

(写真は、父が青年期に過ごした「奉天(現在の瀋陽)」を撮った「はがき」です)

理想的な指導者像

 260年もの鎖国の中から、突如として欧米諸国の介入で、開国に踏み切った日本は、「殖産興業」、「富国強兵」を掲げて、たち遅れを取り戻すために、必死の努力を重ねて、開国30年ほどで大英帝国と肩を並べられるほどの国力のある国に急成長を遂げました。植民地に甘んじていたアジア諸国の中で、一人気を吐いていたのです。経済が肥大化する中で、軍事力も大きくなっていき、ついには資源や市場を求めて中国大陸に進出し、米英を敵に回して戦争に突入してしまったわけです。敗戦によって、決定的に息の根を止められた日本でしたが、奇跡的な復興を遂げたのは、世界中の脅威の的でした。

 「朝鮮戦争」の戦争特需があって、日本の産業界は驚異的な進展を遂げ、ベトナム戦争の特需もあって、米に次ぐ経済大国となったことは、アジア諸国に自信を与え、躍進への意気を奮い立たせたわけです。現在では、韓国もインドもインドネシアも、豊かな経済をもつ国となってきております。

 さて、日本の経済を動かした財界人には、傑出した人物が多くおいでです。戦後、解体された「住友財閥」の系列会社に、「住友化学工業」という会社があります。この会社の社長や会長をつとめた「長谷川周重(のりしげ)」もまた、凄腕の企業人でした。この方の秘書をされた方との関係が、とても興味深かったと聞いておりますので、紹介させていただこうと思います。

 「秘書」をgooの辞書でみますと、『要職の人に直属して、機密の文書・事務などを取り扱う職。また、その人。セクレタリー。「社長―」 』とあります。長谷川に仕えて、万端怠りなく事務やスケジュールをこなし、手先となってことに当たるT秘書は、長谷川の言動におかしなことを見つけると、黙っていられないで、はっきりと指摘してしまうのだそうです。こういった部下というのは、使いにくいに決まっています。『はい!』と言って事務処理に励むだけでいいのに、それ以上のことを言う始末だったのです。人事権もあるのですから、配置換えしたり、左遷することは容易にできたことですが、長谷川は、しませんでした。

 彼は日曜日ごとに「講演会」に集い、過ぎた一週間のことを静まって思い返し、自分の言動を反省していた人だったのです。自分が言い過ぎたり、間違っていることが示されると、決まって月曜日には、それを詫びるのだそうです。ある月曜日、T秘書に、『この前はご免。言い過ぎて済まなかったね・・』と小声で言い、部下への非礼を心から詫びたそうです。部下の人格を尊重し、彼の家族の生活のことを思うと、権威を振りかざすことはいけないことだと自覚したからそうです。だから、謙虚に謝れたのです。

 人は高い立場に就き、人々に見上げられるようになると、なかなか、自分の非を認めたり、謝罪することができなくなってしまうのです。自分の立場を低くしてしまうように感じて恐れるからです。ところが、この長谷川周重は、沽券(こけん)にこだわったり、権威の濫用から遠くにいて、一人の人として、《謙虚さ》を身につけていたのです。

 日本史に出てくる武将たちの多くは、オジでも子でも、さらに父親でも、政敵とみなすと、即刻腹を切らせ、首をはねさせてしまうほどに横暴だったことが分かります。としますと、部下などでしたら物の数ではありません。軽々しく権力を行使することを、自ら諌めて組織の中で、生きた 長谷川周重には驚かされます。 

 大企業の社長や会長の要職にある人は、何十万もの部下の頂点に立っているわけです。その部下には妻子がいます。子どもたちには、教育などの多くの必要があるわけです。部下の家族の「生存権」にまで配慮したトップを持っ企業でしたら、どんなに素晴らしいことではないでしょうか。権威の座で私腹を肥やす人の多い中、 長谷川周重の様な人がいた企業が、祝福されないはずがありません。

 ある時、ある事業部門の経営が悪化し、そこを整理することになりました。そのトップに居る人から相談がありました。『あなたの数十人の部下には、妻も子も、お父さんも母さんもおいでです。彼らの身の振り方を考えてあげて下さい。そうして、あなたの今後を考えてみられたらどうでしょうか。きっと最善に導かれて、再就職の道が開かれますから!』と言って激励したのです。ところが、彼は、自分の妻子を養うことの危機感に苛まれて、誰よりもはやく転職先を見つけて、退職してしまいました。後になってこの方は、『私のために、別の部署の責任を任せたかったのだそうで・・・』と言っていました。日本の政界にも財界にも教育界にも、いえ世界中の国のそういったトップに、長谷川周重のような心意気の人材が欲しいものです。