花火

尾崎士郎の「人生劇場」は、戦前、都新聞の新聞小説として連載され、大人気を博した作品です。上の兄の影響でしょうか、小説を読むことを覚えた高校生の私は、夢中になって読んだのです。とても面白かったのを思い出します。「青春篇」は、尾崎士郎が早稲田の文学科に学んだ折、その学生生活から自伝小説を書いたわけです。青成瓢吉という主人公で、父の世代の早稲田の学生生活を知ることができて、興味深かったのです。広沢虎造の浪曲に、「吉良の仁吉」という人が登場しています。清水次郎長の子分で、「男」として語られており、何度も聞き覚えがあります。そういえば、最近は浪曲、浪花節というのを聞きませんね。ラジオしかない時代に、よく流れていたのですが。

この「仁吉」の末裔の「常吉」を「吉良常」と呼び、これに「飛車角」といった人物を登場させた「残侠篇」が面白かったのです。ヤクザの世界から足を洗って堅気になった男の物語でした。この吉良常が花火師として、上海の夜空に花火を上げる件が実に印象的でした。高校生で単純、単細胞な私は、『よーし、花火師になろう!』と心に決めたのです。『何時か上海の四馬路の水辺で花火を上げてやろう!』とです。このおっちょこちょいの願いは叶えられないまま、夢は潰(つい)えたのですが。

ところが17年ほど前に、私は、北京、フフホト(内モンゴール)、広州、上海と旅行をしました。その時、出来上ったばかりの「上海タワー(東方明珠電視塔 )」に昇って、『あそこが日本人街があったあたりです!』と、私たちを案内してくださった方が指さした方を見つめていました。「人生劇場・残侠篇」の光景がよみがえるようでしたが、それからは、一度も上海を訪れる機会がありません。戦争前も現在も、日本人が多く居住している街ですが、一人で行く自信がありませんが、誰かに案内していただいて、また訪ねてみたいと思っています。

もう一昨年になるのですが、「上海万博」が行われた際に、驚くほどの数の花火が主会場の夜空を焦がしていました。人工的な美ですし、瞬間の煌きですが、花火は人の心を踊らせる不思議な力を持っているのを感じてしまいます。次男が、京王線の「聖蹟桜ヶ丘駅」の近くに住んでおりました時に、多摩川の河川敷で打ち上げられる「花火大会」の席を、久しぶりに帰国する私と家内の分を買っておいてくれたのです。その時、家内は帰国出来なかったので、見ることができませんでしたが、私は、生まれて初めて、一等席で見上げることが出来たのです。夏の風物詩として、日本中で花火大会が行われるのですが、東日本大震災が起こる前でしたので、満喫させてもらいました。

吉良常が上げた花火に、上海在住の邦人が、きっと歓声を上げたように、その大会でも大きな歓声が上がっていました。それまでは、遠くから見る花火に趣があると思っていましたから、わざわざ出かけていくことはなかったのですが、『ドスン!』と上げられ、『パーン!』と炸裂して火花を降り注ぐ花火を、頭上に見ることが出来たのは、驚くべき経験でした。今年は、《自粛ムード》という日本独特の慎みを、緩和されて、そこかしこで「花火大会」が持たれるのではないでしょうか。景気が低迷したり、災害があったり、愛する人との死別があっても、生きている人が元気になるためになされる様々な催しが、罪意識なく行われる方が、好いのではないかと思うのです。遠慮ばかりでは、なかなか人の心が高揚しないからです。一瞬の煌きを、浪費や無駄と断じるばかりではなく、人の心に、『一花咲かせたい!』との元気な思いを生み出すなら、かえって、被災地で花火を上げてもらいたいものだと思うのです。

いつだか見た値段表にあった、《尺玉で6万円》には驚かされたのですが。小遣いを握って、雑貨屋に跳んでいって買った「袋入り花火」を、兄弟4人で楽しんだ日がありましたし、グアム旅行に義兄が連れていってくれた時に、上の二人の子と、税関を無事通過した花火を楽しだこともありました。そういえば私の親爺も花火が好きだったのです。「線香花火」のチマチマした閃光が、とても懐かしく思い出されてきます。

(写真は、HP「゜+.(・∀・)゜+.゜伊那市近辺の食事処めもー!」の高遠城下まつりの「花火」です)

気骨の人

 中国語では、大きさを「大小daxiaoダシャオ」といいます。『日本は大きいのがいいのか、それとも小さいのがいいのか?』、政治や軍事や経済の面で対照的な考えが、これまでありました。それは、家の大きさも、車も、自分の体だって、そうかも知れません。幕末の人物の中で好きだったのが、長州藩士(現在の山口県萩市)の高杉晋作です。倒幕、尊皇攘夷(日本で江戸末期、尊王論と攘夷論とが結びついた政治思想。朱子学の系統を水戸学などに現れ、下級武士を中心に全国に広まり王政復古・倒幕思想に結びついていった。勤王攘夷。尊攘。)」の中心人物でした。自分の藩のことだけではなく、日本の将来を危惧していた人でもあったのです。彼もまた、幕末に活躍した人物、西郷隆盛や坂本龍馬たちと同じで、石高の低い下級武士の子でした。

 1862年、明治維新が1868年ですから、その6年ほど前の五月に、長州藩の命を受けた高杉晋作は、中国の上海を短期に視察をします。彼22才の時でした。この留学は清朝の動静を探り、その情報を得る任務が課せられていたようです。当時の「清」がイギリスなどの欧州諸国の進出で、植民地化の動きがあるのを実際に観ます。「アヘン戦争」で敗れた中国は、イギリスの勢力の支配下にあり、その悲惨さを目撃します。また「太平天国の乱」で混乱する上海の世情も眺めるのです。このような清朝の「危機」は、何も対策を講じないなら、やがて日本にも、同じ危機をもたらせるに違いないと結論したのです。

 徳川幕府の末期は、風雲急を告げる様な世界の嵐の中にあったこと、その思いを強烈にしていた上海視察であったのです。長い鎖国によって欧米諸国に遅れをとっているという日本の現状の中での「危機感」でありました。高杉晋作は、「尊皇攘夷」の思いをさらに強くし、新しい日本の到来を願ったのです。ですから、明治維新以降、日本は、「遅れを取り戻すこと」、「欧米に追いつくこと」、「欧米を追い越すこと」を掲げて、「大日本」の建設をしていくのです。「殖産興業」、「富国強兵」は、明治維新政府のスローガンでした。それは、敗戦によって終わるのですが、国土も資源も小さな日本が、行く道を誤ったか、時代の動きに翻弄されたのか、鼻っ柱をくじかれることになって終わったのです。

 高杉晋作は、日本の命運に心を注いで、動乱の時代を駆け抜けます。しかし、1867年5月17日に、「おもしろきこともなき世をおもしろく」という辞世の句を残して、 28年の生涯を閉じてしまいます。彼の師は吉田松陰 でした。幕末に、多くの青年たちに精神的な感化を「松下村塾」で与えています。私が中学と高校で学んだ学校を起こした校長は、『松陰の弟子だ!』と言っていたのを聞いたことがあります(時代が違いますから、思想的な弟子のことでしょうか)。この「大国主義」の松陰の弟子の高杉晋作もまた、「大日本」を願ったのでしょう。松陰は29才で処刑され、彼も28才で病死していますが、血気盛ん、熱血の青年武士は、「大国」になっていく日本を夢見たに違いありません。

 私の好きな政治家、と言うよりはジャーナリストの一人が、石橋湛山です。彼は、「小国論」を掲げた人でした。「一切を棄(す)つるの覚悟」うを東洋経済新報の社説で述べるのです。1921年7月23日から30日の三週にわたってでした。次のように語りました。

『我が国の総ての禍根は、小欲に囚われていることだ。志の小さいことだ。古来無欲を説けりと誤解せられた幾多の大思想家も実は決して無欲を説いたのではない。彼らはただ大欲を説いたのだ。大欲を満たすがために、小欲を棄てよと教えたのだ。~ もし政府と国民に、総てを棄てて掛かるの覚悟があるならば、必ず我に有利に導きえるに相違ない。例えば、満州を棄てる、山東を棄てる、その支那が我が国から受けつつありと考えうる一切の圧迫を棄てる。また朝鮮に、台湾に自由を許す。その結果はどうなるか。英国にせよ、米国にせよ、非常の苦境に陥るだろう。何となれば、彼らは日本にのみかくの如き自由主義を採られては、世界におけるその道徳的地位を保つ得ぬに至るからである。そのときには、世界の小弱国は一斉に我が国に向かって信頼の頭を下ぐるであろう。インド、エジプト、ペルシャ、ハイチ、その他の列強属領地は、一斉に日本の台湾・朝鮮に自由を許した如く、我にもまた自由を許せと騒ぎ起つだろう。これ実に我が国の地位を九地の底より九天の上に昇せ、英米その他をこの反対の地位に置くものではないか。』

と語りました。大きな国を目指して、産業界も軍部も、突き進む中で、こういった主張を恐れずにした湛山に驚かされるのです。時代に動きに逆らって、『否!』といえた気骨の人だったことになります。このようなジャーナリスト、政治家が、今の日本に必要とされているのではないでしょうか。一つの小話を。『国は大きいのがいいのか小さいのかがいいのか。松陰は「大きいのがいい」と言い、湛山は「小さいのがいい」と言います。そこに鼠がやってきて、「チュー」。』お後がよろしいようで。