大自然の「大交響曲」とは、雷鳴の轟(とどろき)ではないでしょうか。「ゴロゴロ」、「バリバリ」と言う擬音では表現できないように、腹の底に響き渡るような轟音(ごうおん)が、しかも長く続いています。今もシンバルンの音の何十倍もの音響が、劈(つんざ)くように響きわたっています。雷光は凄まじく、空の端から端に煌(きらめ)きます。雷雨も半端ではありません。窓の下のアスファルトの道の上を叩きつけていますが、『車軸を流す!』と言った表現が一番でしょうか。
ここ中国大陸の南、華南の夏の風物詩の《雷》が、私は大好きです。《男っぽい》というのでしょうか、《男性的で豪胆》というのでしょうか、《大陸的》というのでしょうか、本当に、ほれぼれとしてしまいます。気分が爽快になって、ささいなことなんか、すっかり忘れられます。
かつて、狭い日本での生活に飽き足りなくて、大陸に憧れて、勇んで出かけてきた、多くの青年たちの心意気と、同じものを感じてしまいます。私の父も、その青年期に玄界灘を越え、東シナ海を渡って、奉天(現在の瀋陽)で過ごしたと言っていました。きっと、今日の午後ように、雷鳴が轟き渡る大陸の大交響曲を聞いたのではないでしょうか。「五族協和(漢族、満族、蒙古族、朝鮮族、日本)」という大理想の実現を、純粋に願って、箱庭のような手狭さを嫌う父のような青年たちを、中国大陸に雄飛させたのでしょうか。ある方が、『あの北米のアメリカ合衆国のような国を、満州の大原野に作りたい!』と願ったのだと記された文章を読ませていただきました。ブラジルやハワイや北米に移民していった青年たちのように、同じ純粋な志だったのだと思うのです。ですから決して軍靴や銃で蹂躙するということを意味していなかったのです。
しかし軍部の独走と暴走で、実に残念な結末を迎えてしまったのは、歴史の事実なわけです。私たち日本人に、アメリカ人が使ったような蔑称を、私たちに日本人も、中国や朝鮮のみなさんに使ったことは事実ですが、驚くほどの親密な友情で中日、韓日の交流があったことも事実です。私が20数年前に訪問した台湾のみなさんは、戦前の日本の統治を懐かしく語ってくださったのです。『あの頃は、家に鍵をかけなくても、盗まれるようなことがなかった時代でした!』とです。これと同じようなことが東南アジアにもあり、きっと中国でも朝鮮半島でも、あったのではないかと思うのです。残留孤児の面倒を見てくださった、中国東北部のみなさんには、悪い感情だけで日本人を見ていなかったことが、そうさせたのではないかと思われ、感謝が溢れてきます。
今学期、中国と日本の交流史を基軸に、学校で講義させていただいたのですが、日本の政治、経済、法制、教育、福祉など、ほとんどの分野で、あまりにも緊密で親密な関係が、長く深くあったことを改めて学んで、中国のみなさんには感謝を忘れてはならないのだと、今さらながら強く思わされています。
この6年の間、実に優れた人格者と出会うことができ、素晴らしく振る舞う青年たちと交わり、その感謝は、さらに大きくなっております。日本人と中国のみなさんとは優劣を決めることなど全くナンセンスなのです。親子のような、兄弟のような、師弟のような、そんな素晴らしい関係史を顧みながら、友人たちとの友情を、喜び楽しんでおります。しかも、彼らの多くは、私と家内とを「一家人yijiaren」と言って接してくれているのです。その気持ちに感激しながら、大好きな雷鳴が、だんだん遠ざかっていく夕方であります。
(写真は、HP〈神戸観光壁紙写真集〉の画像の「稲妻(明石海峡)」です)