知恵

 

         人の語ることばにいちいち心を留めてはならない。

         あなたのしもべがあなたをのろうのを聞かないためだ。

 学校を出て社会人になろうとしていた時に、今で言う「就活」の時期になるでしょうか、母校の恩師が、1つの職場を紹介してくれました。私は、6年間の在学中に、この教師から教わったことがなかったのです。中学生の時に、バスケットボール部に所属しながら、高等部の「考古学研究部」の活動に参加していました。この研究会の顧問をされていたのが、この教師だったのです。学校が、武蔵府中、武蔵国分寺があった地にありましたので、よく、分倍河原、仙川、日野などの住居跡などの発掘の手伝いをしていたのです。

 スコップを手にしながら、堀り進んでいくときに、千年も二千年も前の古代の人々の生活の様子に、時空を越えて触れられるといった「浪漫」にふるえていたのです。あのまま進んでいたら、古代史の研究者になっていたかも知れません。ところが、バスケットボール部の上級生も、高校生も、OBも、何も知らない純な中学生の私を、大人の世界に引きずり込んでしまったのです。「揉まれる」というのでしょうか、エログロの雑誌や写真を見せられ、選び取りをするまでもなく、汚れた社会の洗礼を受けてしまったわけです。帽子に細工をしたり、ズボンの太さを調整したり、生意気さを増長させてしまう道に、突進していったのです。これが大人になるということとは違うのでしょうけど、背伸びをして、『はやく大人になりたい!』と焦った気持ちを持て余していましたから、すんなりとその波をかぶってしまったわけです。よく「中2の危機」とか「17の危機」とか言うのですが、まさにその危機の只中を深く潜行していたのです。

 そんなことですから、浪漫を追い求めるよりも、がむしゃらに大人の世界に突入していくのです。喧嘩をして、体の大きな級友を殴り倒したり、パンを盗んだり、実験室に忍び込んだり、クラブの部室荒らしをしたり、教師に楯突いたり、そんな事で明け暮れていたのです。ところが中3になってから、急におとなしくなって、三学期の学年末の「通信簿」に、担任が、『よく立ち直りました!』と書き込んでくれたほどでした。どうして、あのまま、ズルズルっと落ちていかなかったのか、自分でも不思議でならないのです。そのまま高等部に上がって、入ってきた同級生の中には、すぐに数人が退学していきました。盗みの常習で、意気が合って仲よかったのですが、運動部に入っていましたので、彼らと一緒に行動できなかったのが幸いしたようです。というよりは、心のどこかで、『母親を困らせて、泣かせてはいけない!』といった思いが強くて、それが抑止力になっていたのだと思うのですが。

 教育実習を、母校でさせてもらった時に、この「考古学研究部」の顧問の教師が、私の世話をしてくれたのです。「就活」の最中、この先生から連絡があって、『学校の帰りに寄りませんか?』と誘ってくれて、行きますと、『今度こういった機関が出来ましたので、私の元同僚もいますから、働いてみませんか?』と紹介してくれたのです。恩師の紹介でしたので、即採用となって、そこで3年働きました。この恩師の元同僚が、私の所属課の課長でした。一緒に山歩きをしたりはしたのですが、「狡い男」だったのです(!?)。この人につまずいた時に、それなりに悩ましい表情をしていたのでしょう、母が、冒頭の「ことば」を、私に聞かせてくれたのです。『人の語る言葉に煩わされないでね!』と言ってくれたのです。もちろん、《人間不信》を母が教えてくれたのではなかったのですが。どうも『人の言葉を鵜呑みにしないで、言葉半分で聞いたら!』と、教えてくれたのだと思うのです。それ以来、人にはつまずかなくなりました。感謝なことです。

 その上司が後で、ある短期大学の学長になっていたのを知らされて、驚いたことがありました。きっと、私のようにつまずいた部下が、何人もいたのではないかと、ふと思ったことでした。それでも、私の苦悩の日に、ほんとうに的確な助言をしてくれた母の知恵には、いまだに驚かされたり、感謝だったりであります。

(写真は、長野県富士見町の井土尻遺跡からの出土品です)

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