どう決断するか

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 明治期に、札幌の農学校にやって来た、William Smith Clarkという教師が、日本全国から来て学んでいる、まだ十代の学生を残して、アメリカに帰国する時、『Boys  be ambitious ! 』と言い残しました。青年たちに、野望や大志を心の中に宿して生きる様に勧めたのです。

 教え子たちはその言葉に従って、「大志」を抱きながら、日本の夜明けの時代を生き始めたのです。その中には、北海道開発に尽力した者、技術研究分野で開拓した者、国際社会で活躍した者、若者を教えることに情熱を燃やした者など、有名無名な人たちがいました。その中に教育者となっていく内村鑑三がいました。挫折や苦しみの中から、一校(東京大学の前身)での通常の教育分野を、「不敬事件」を起こして追われます。結局、聖書を教える教師、いえ人の生き方を教える師となって、多くの若者に強烈な感化を与えていきます。

 野望を挫かれたのですが、日本の近代化に貢献する人材を育て、その育てた人たちが、また次の世代の若者たちを育てていきます。その感化は絶大なものがありました。野望や大志を持って生きていくこと、強い願いを持つ事は青年期の特徴です。

 クラークにしろ内村にしろ、その人生に、神が介入されたのです。自分の野望で生きたのではなく、「神の御心」を生きる様に、挫折体験を通されたのです。他に生きる道を示されたのです。クラークは南北戦争に従軍した軍人でしたし、農学校の教師でしたが、札幌に導かれたのです。そこに九ヶ月いた間に、わずかな若者たちに触れただけの人でした。

 第二回生で入学した内村鑑三は、クラーク帰国後に、間接的に感化されています。内村もまた大志は砕かれ、神の導きを、苦悩しながら生きて、それでも日本の精神界に重大な影響を与え、今なおそれは留まっていません。クラークにとっては、札幌にいた9ヶ月だけが、彼の人生の華の時期だったと言われています。でもその意義は、日本にとって大きかったのです。

 立場なしでも学位なしでも、男は生きていけます。神を信じ、生きていくなら、神さまは生きていく道を示され、自分が計画した道、願った道ではなく、苦難の道に導くことが、多くあります。そこで、主を認めることができ、その無言の促しに従うなら、素晴らしい人生を生きていけます。自分の満足のためではなく、次の世代の若者たちが、主を畏れて生きていくために与える感化は絶大です。

 教室の教壇から、教師ができる最高のことは、学問の専門知識の感化だけではありません。精神的な人格的な信仰的な感化ではないでしょうか。専門知識は一時期ですが、「生きること」、どう生きていくかは一生の課題です。もし真実な影響を、キリスト教徒の教師から受けたら、その人の人生は成功ではないでしょうか。

 わたしの弟は、高校の教師でしたが、大学に何度か招聘されながらも、それを断り、自分の母校の一教師として奉職しました。定年退職後から、75歳まで、学校に彼の部屋と机が残され、教師たちの相談役をし続けてきたのです。在職時には、付属の幼稚園児も、小学生も教えていました。卒業生の成人式には、式を企画する卒業生から請われて、毎年、祝福のスピーチを、聖書から語り続けています。校長先生ではなく彼なのです。社会の中では無名ですが、卒業生の中では絶大なる敬慕を得ているのです。

 彼は自分の使命を知っていたのです。在学生を連れて臨海学校に行き、台風の大波で、2人を救助しましたが、1人の学生を死なせてしまうという事件があったのですが、それを乗り越えて、母校の教師を続けたのです。博士号は得ませんでしたし、教育功労者にもなりませんでしたが、一教師の務めを全うして今があります。信仰上の、精神上の感化を受けた学生は数限りなくいるのです。それは一生ものです。

 Zさん、あなたの願いは間違っていません。主の前に持ち出して、奥さまと一緒に祈って、どう生きていくかを決められたらいいなと思います。妻は夫の生き方の決定を支持したらいいのです。でも、どうすべきかを夫は妻に聞くべきです。妻は、神があなたのそばに置かれた最高の助言者、better half だからです。自分の半分が何を感じてい、おもっているかを聞くことによって、人生の危機を回避でき、正しく決断ができます。人生は短いのです。盛りの時期は束の間で過ぎます。でも霊性上のことは永遠です。

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 この文章は、教授になろうとしている若き友人に、書き送ったものです。1人の教育者、研究者として、どこで教え、どんな立場で教え研究するかは極めて大切です。有能で将来を嘱望されていて、迷うのでしょうか、どう選択し、決断するかを、彼の奥さんが変わって相談してこられました。

 猛烈に忙しい、徳島弁を話す、日本の大学で博士法を取った彼のために、自分も日本の大学で博士号をとって、省立大学で法学を教える教師の奥さんは、とかく信仰生活がなおざりになって、社会的な立場に思いを向けているご主人を心配してでした。年齢的にも、最後の決断の時期なのでしょう。

 お二人とも信仰者で、最優先にすべきなのは、この世に置いていかなければならない業績や立場や名誉ではなく、永遠を支配される神であり、神のご計画なのです。称号も業績も、天国に持っていけないのですから、そればかりに執着するのも、もったいないのです。これから、どう生きていこうとして模索中の青年たちに、『これが道が。これを歩め(イザヤ3021)』と、神が語りかける声を聞くために、導く務めがありそうです。

近々、学会があって、日本に来るそうです。時間をとって、わたしたちを訪ねたいと言ってくれています。良い決断がなされます様に。

(北大のキャンパスにあるクラーク像、Christian  clip art のイラストです)

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壁を越えて

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 ある医師が、お病気で亡くなられる直前にお話になられたことを記した読み物を、隣人が家内に届けてくれて、それを今日読みました。

 『宗教を再構築しないと、死の教育とか倫理性など成立しない。この(戦後)65年間、目をそむけてきたのを反省して、正面から対峙しなければならない。宗教が一般の人間にわかりやすいレベルまで降りてこないと。』と、そこに記されてありました。

 この「宗教」に関するお考えを読んで、『宗教が一般の人間にわかりやすいレベルまで降りてこないと。』に、わたしは母の生涯を思わされたのです。母は、子どもの頃に、友だちに誘われて、カナダ人宣教師の教会の日曜学校に行くようになりました。そこで、「宗教」ではなく、「父なる神」と、個人的に出会ったのです。母は、14歳で信仰を告白して、17歳で洗礼を受けたそうです。

 宣教師家族との温かな交わりを通し、聖書を読むうちに、聖書に記された神が、《父でいらっしゃること》、しかも《わたしの父》であると知り、幼い日に亡くなったと言われてきた父がいなくとも、創造主なる神が、「真性の父」であって、このお方が自分の本当の「本物の父」だと信じる事ができたのです。

 『あなたは未婚の母の子であって、他にお母さんがいて、一緒にいる人は母ではなく養母なのだ!』と、近所の人に聞かされてたのです。父親は認知することなく去り、産み落とした母親は、自分で育てることなく、養女として、子のなかった家庭に養育を任せたのです。未成年の母親の考えなどではなく、親や親戚の事なかれ主義の考えで、事が決まってのでしょう。

 物心が付く頃に、父親は亡くなったと聞いて、母親との二人の生活の中で、寂しさを感じながらも、母に可愛がられながら育ったようです。ところがお節介な近所の人から、そのことを聞いてからの母は、生母に会いたい気持ちが日々に募っていったのです。

 17歳の時に、実母に会いに、奈良に行ったのです。会ってくれたのですが、『今の幸せを壊してほしくないから、帰ってくれ!』と言われて、涙ながらに出雲に帰ったのです。母が、養母の葬儀出席で帰郷し、葬儀を終えて持ち帰った写真の中に、実母の写ったものが、母の持ち物の中にありました。何と、爪で引っ掻いて消してしまった写真が、幾葉もあるのを見たわたしは、母の17歳の激しい感情を知ったのです。

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 二十代の初めに、父と出会い結婚し、兄を始め四人の子を産んで育ててくれたのです。親には捨てられた自分を、見守り、激励し、95歳で帰天するまで、その様な境遇を自分が与えられたことを、神が許されたことと、母は認められたのです。その神を信じ、愛し、従って天寿を全うしたわけです。

 日本の神々が、「神無月」に参集するという出雲の地は、仏教にも熱心な地でしたが、母は、そこで「父」と出会ったのです。上の学校で学びたくとも、昭和初期の地方で、しかも母子家庭の女の子は、高等女学校にも女子大へも進学はできなかったのです。街のグンゼの工場で働きながら、教会生活を続けながら生きたのです。

 母の確信は、『主イエスを信じなさい。そうすればあなたも、あなたの家族も救われます(使徒1631)』という聖書の約束でした。信じた結果、父もわたしたち4人の男の子も信仰を得たのです。

 神を信じるには、けっこう困難な状況下にありながらも、神を呪わず、神に唾することなく、信じられた母にとっては、「宗教の壁(レベル)」」は高くはなかったのではないでしょうか。宗教の壁を低くする代わりには、神ご自身が、自らを《低く》して、人の間に来て、人として生活をされて、ついには、十字架に行ってくださったのです。

 そこに母に「近づいてくれた神」がいたのです。「壁を跳び越えてきてくれた神」がいて、このお方が、母の寂しさや悔しさの中で慰め、励まされたのが、神でした。信仰の熱心さのゆえに、台湾に売られそうになる直前に、出雲警察署に保護され0るといった危機を、母は、この神と共に越えたのです。

 『あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(1コリント1013節)』

 母にとっては、宗教ではなく、生きていく上で、「語り掛けてくださる神」が共にいてくださった激励者で、救い主だったのです。このお方を心で「救い主」と信じ賛美し礼拝し、このお方を知りたくて聖書を読み、このお方を信じる人たちと共にいたくて教会に行き、このお方を人に伝えたくて伝道し、パートで働いたお金で献金もして、クリスチャン生活をし続けたのです。何よりも、このお方に話しかける様にして祈る母だったのです。その神を信じる生き様が、子や孫に受け継がれて今日に至っています。

(「キリスト教クリップアート」のイラストです) 

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祈り

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FIREMAN’S PRAYER
When I am called duty . God, whenever flames may rage:
Give me strength to save some life whatever be its age.
Help me embrace a little child before it is too late or save an older person from the horror of that fate.
Enable me to be alert and the weakest shout, and quickly and effectively to put the fire out.
I want to fill my calling and to give the best in me, to guard my every neighbor and protect his property.
And if, according to your will, I have to lose my life :
Please bless with your protecting hand my children and my wife. Amen

緊急の命を受けたとき
神よどこで炎が吠えようとも
尊い命を救う強靱な力を与え給え

小さな子どもから老人まで
炎の恐怖から救い出すパワーを与え給え
か弱い叫びも聞き逃さず
素早く火を消し去る力を与え給え

私は天職に従い生命の全てを賭け
人々と財産を守りたい

そしてもし神よあなたの意志に従い
命召されるときは
わが子と愛する妻に
あなたの慈悲を与え給え

 「祈り」無くして果たせられない「仕事」が、この社会の中にあります。とくに、猛火と闘う「消防士」は、その最たるものではないでしょうか。この英文の「祈り」は、「消防士の祈り」と呼ばれ、”911“ のテロの時に出動した、ニューヨーク市消防署をはじめ、アメリカ合衆国のどこの消防署の壁にも、掲げられてある、神への「祈り」なのです。

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 小学校の同級生で、仲の良かった友だちのお父さんが、「消防署長」でした。そのお父さんの勤めていた消防署で、小学生に柔道を教えていて、弟が習っていました。勇気がなかったのか消防士になる願いを持つことは、わたしにはありませんでしたが、勇猛果敢に、火と格闘して、市民の命を守る仕事には、尊敬の念を覚えていました。

 江戸には、「火消し」がいて、八百八町が火事で延焼するのを食い止める、民間の消防士でした。江戸期の初期には、三百余の町があったのですが、後期になると「千町」にもなっていたそうで、男気の男いなせな仕事だったそうです。

 住んでいたマンションの上階で、ガス爆発があって、危うく火の引火で吹き飛ぶところを、難を逃れて親子五人、家内のお腹の中に次男がいましたから、六人が命からがら、火を通りながら助かった経験がありました。火元への消防署と消防団との放水で、我が家も水浸しでした。

 阪神淡路大震災、東北大震災でも、地震発生後に、一番活躍されたのは、消防士、警察官、自衛隊員のみなさんでした。普段、安心して、市民が床に着くことが出来るのは、消防士のみなさんのいらっしゃることによります。

 これまで一番驚いたのは、ニューヨークの貿易センタービルが、アルカイダのテロ攻撃によって、火炎が上り、二つの高層ビルが倒壊していく様子を、テレビ中継で見たことでしょうか。その消火活動や救難活動で、400名以上の消防関係者が殉職されています。

 このニューヨーク市消防署を始めとする、アメリカの消防士たちは、この「祈り」をもって、市民の命や財産を守る務めに、命を捧げつつ、祈るのだそうです。わたしも、消防や救命活動に従事されるみなさんが、ご無事に職務を果たされるように、お祈りによってお支えしたいと願っております。

(江戸の「町火消し」、「消火活動」です)

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波濤を越えて

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  『それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ161518節)」

 幕末に、アメリカから太平洋の波濤を越えて、日本にやって来た宣教師たちの中に、ヘボン( James Curtis Hepburn )と言う方がいました。1859年4月に、北アメリカ長老協会の医療宣教師として、ニューヨクを出発し、香港、上海、長崎を経由して、その半年後の10月17日に、横浜に到着しています。
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 成仏寺の本堂が、ヘボンの住まいとされ、「神奈川施療所」を設けて、主に眼科の治療にあたったのです。日本最初の幕府公認の西洋医学の医院が、横浜に開院されたのです。その頃、「生麦事件」が起きって、ヘボンたちは、負傷者の治療をしたと記録が残されています。眼科の治療のために、無料で診察をしたと言われています。

 ヘボン夫妻には、6人のお子さんがいたのですが、5人が病死するという辛い経験をしながらも、キリストの愛によって、医療に従事し、英語教育を始めて、キリストを証ししていきます。港区の白金にある、明治学院の創設者は、このヘボンでした。会津戦争に、白虎隊として立った井深梶之助は、この明治学院で学び、後に学院経営に当たっています。

 晩年、病弱だったクララ夫人に寄り添って支えたことが語り残されています。あのローマ字の「ヘボン式」は、この方の努力によって作られているのです。医療宣教師の立場で日本の社会の中で奉仕をされた方です。維新後、日本の近代化のために、多くの御雇外国人がいましたが、その中でクリスチャンの教師や技師や宣教師の寄与は絶大なるものがあります。


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 私たちが華南の街にいた時に、娘のようにして、いろいろと助けてくれた方は、漁村の出身の方でした。村の市場の入り口で、バケツに入れた魚を商いするお母様を助けながら、貧しい生活を支えて少女期を送ったのだと、話してくれました。その漁村は90%の人が、五代目、六代目のクリスチャンで、彼女のお母さまも、彼女も、お子さんたちも、同じ信仰を継承しておいでです。ヘボンのような宣教師たちの福音宣教の結果なのです。

 ヘボンが日本に来た頃、欧米諸国の植民地主義の野心ではなく、「福音宣教」のために、多くの宣教師が、広東省、福建省、浙江省などの海岸地域や、内陸部で宣教をされ、その奉仕の実が残され、信仰を継承しているのです。数年前、帰国した家内を見舞うために、友人と二人でやって来られ、お借りしていた家の掃除や食事のお世話までしてくださったのです。

 家内も義母も、私も母も、宣教師の伝道の実なのです。神のいますこと、この神が父で、愛の神であること、その愛のゆえに、神が人となられた「神の子イエス」が、信じる者の罪の身代わりに、十字架に刑死してくださったこと、三日三晩の後に、このキリストなるイエスは、墓と死を打ち破られて蘇られたこと、弟子たちとしばらく過ごした後に、天の神の右の座に着座されたこと、そこで執り成しの祈りをされ、助け主なる聖霊を送られ、信じた者を迎えるために、場所を設け、その場所が備えられたら迎えに来てくださること、そう言ったことを伝えてくれて、信ずる人が中国にも日本にも、世界中に起こされてきたのです。

(東シナ海の海岸風景、英国の聖公会の宣教師が残された教会堂です)

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心に刻んだ街

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 『いつかヨーロッパを訪ねてみたい!』、と願いながら、その夢が叶えられずに時が過ぎてしまいました。それでも諦め切れていない長年の私の夢なのです。イギリスにもフランスにもスカンジナビアにも行ってみたいのですが、一番訪ねてみたいのは、ライン川の上流のネッカー河畔にあるというハイデルベルクの街です。

 ドイツ有数の景勝地ですが、私が行って見たい理由は、この街で、聖書解釈の論争や紛争を、穏やかに解決したいと願った、フリードリッヒ三世が、熟練した人ではなく、これからの時代を担って行く、主と聖書と教会を愛する、若い二人の人に、それを要請したのです。

 彼らは、精一杯努力を傾けて、祈りと協力の中で、「ハイデルベルク信仰問答」をまとめ上げます。人に教える能力に優れたウルジヌスと、情熱的で優れた説教者だったオレヴィアヌスの二人によってでした。その出来上がった草稿は、教職大会に提出され、検討吟味されています。そして1563年に出版されました。

 種子島に鉄砲が伝来したのが1543年でしたから、その20年後のことであります。それまで、『信仰を正しく教える!』と言う願いを込めて、宗教改革以降、いくつかの「信仰問答」が生まれていました。その代表的なものが、この「ハイデルベルク信仰問答」なのです。

 おもに、バプテスマを受けようとする人の準備のために用いられてきたのですが、クリスチャンとされた私たちが、自分の信じていることの全体を、網羅的に再確認するためにも、大切な役割を持っております。おかしな教えや自分勝手な聖書解釈によって、教会はもてあそばれて来た過去がありますが、正統で健全な信仰を養うためには、この「信仰問答」や「教理問答」は、とても有用なものだと信じるのです。

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 健全な信仰を持っているなら、非聖書的な教えを、しっかり、はっきりと見抜くことが出来るからです。 その内容は、ジュネーブの宗教改革者ジャン・カルヴァンの著作が、基本ですので、改革派教会の代表的な信仰問答書だと言えますが、中立的な立場を取ろうとした努力が、この二人の起草者によってなされていますので、偏ることのない、「信仰問答」だと言えます。

 罪に堕ちた人間が無力で惨めであること、そのような私たちをあわれまれる神が、御子を十字架に罰して、私たちの罪を贖ってくださったこと、「人のみじめさ」から始まって、「神のみ恵み」が、この問答で展開され、「ただ一つに慰め」を、神さまから頂いているのです。ただ栄光の神さまが、あがめられほめたたえられているのです。


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 台湾に宣教旅行をさせていただいた時に、おもに長老派の教会をお訪ねしました。その牧師さんたちに、『あなたの説教は健全なので安心しました!』と言われました。それは、健全な教えを、私が宣教師方から受け継がせていただいたからだと思っています。

 初代の教会でなされた「癒し」や「聖霊の賜物」や「御霊の実」などが、この時代のキリストの教会で現わされ、賜物が、『終わってしまった!』のではなく、この時代にも用いられると、私は信じています。そうイエスさまが約束してくださったからであります。でも、「健全な教え」こそが、教会への最大の賜物であります。キリストが贖われた教会から、主の栄光がほめられますように!

 五百年も年月が経つのに、真理に没頭した信仰者たちの過ごした、ネッカー河畔の街は、生まれた山村、育った東京郊外の街、主と教会に仕えた街、海を渡って過ごした街、それらに比しても、勝るとも劣らなく、若い日に心に刻んだ街なのです。

{別のブログに200611月に掲載分に少し手を入れました!}

(ハイデルベルクの街角、竹森満佐一氏の著作です)

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六月花

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 今夕、次男から送られてきた写真です。雨に濡れた「紫陽花」、幻想的な季節感を感じることができました。ここ栃木市の大平山にも、そろそろ紫陽花の季節がやってきそうです。散歩の途中、巴波川の傍に、紫陽花が植わっていて、そこで咲き始めると、一週間ほどで大平山に、紫陽花の季節がきます。楽しみの前の、東京都心の六月の花です。

❤️ 画面を tap すると大きく見られます!

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宇宙への road

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 正倉院の宝物庫の中に、「 silk road / シルクロード」で運ばれた交易品が収められてあります。陸路と回路で日本に渡ってきたのだと、小学校の歴史で学んで、中国大陸からヨーロッパに広がるユーラシア大陸に思いを馳せた記憶があります。そのシルクロードは、「長安(現在の西安)」や「洛陽」と「ローマ」や「アンテオケ」を結ぶ通商のための交易路だとされていますが、どこが起点で終だったのかは特定できていません。それで好いのでしょう。

 ところが、古代には、この様な呼称で呼ばれていたのではなく、1877年に、ドイツに地理学者のリヒトフォーヘンが書き著した、「China」という著書の中に、初めて現れた呼び名なのです。その交易の主要な品目を「絹」と特定して、そう呼んだことになります。ですから、かつては「草原の道」、「オアシスの道」、「海の道」だったのを、総合したものとして、学者が命名して、それを私たちは学校で学んだわけです。

 もうずいぶん前になりますが、NHKが、「シルクロード」という特集を放送してから、急に注目され始めたのではないでしょうか。金儲けの道だったのが、夢も運んで、人の営みの栄枯盛衰を描き出した、悠久の世界でした。

 砂漠を歩み、オアシスを目指した道を、文明の利器を使って高い所から鳥瞰(ちょうかん)的に描き出していました。まるで映像の魔法にかけられた様に、見入ってしまったのを覚えています。

 時代はずっと下って、民代の永楽帝に仕えた、「鄭和(ていわ/Zheng He)」という武将で、海洋探検家として、最初に、62艘の大船団を組んでマラッカ、後には、アラビヤやアフリカまで出掛けています。

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 南京を船出し、福建省の長楽、泉州などをへて、航海をしたのです。ポルトガルなどによる、ヨーロッパ大航海時代のだいぶ前に始まっているのが特徴なのだそうです。その長楽の闽江(minjiang)の河口の近くの東シナ海を眺められる村に連れて行ってもらったことがあり、そこに、とてつもなく大きな鄭和の像があってとても驚かされたのです。

 そのような海伝いの海路を、「海のシルクロード」と、今は呼んでいます。古来商人たちは、どこまでも出掛けていき、危険を冒しながら、物を運びながら商いをしてきています。中国は、日本やドイツの新幹線の鉄道技術を導入して、その高速鉄道を広げ、今やアラブからヨーロッパにもつなげようとしています。もう「鉄路のシルクロード」が敷設されていくことになりそうです。

 ラクダの隊商が、月の砂漠をはるばると辿る道の険しさと悠長さとは、現代は 、もう似ても似つかない時代になってきていることになります。鄭和の船団も、帆船でしたから、吹く風に任せた船旅だった事になります。「丝绸之路sichou」と呼んでも、絹などではなく、これからは何が運ばれていくのでしょうか。野心ではなく、友情とか博愛など、人間や文化の交流とかいう穏やかなもので交流できたら好いのではないか、と思ってしまいます。

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 ところが時代は、もう、陸や海ではなく空、しかも、宇宙が、国家間の覇権の競争の場になっているのに違いありません。そのおかげで、宇宙はゴミだらけになっていて、直近の課題は、「宇宙」の清掃のようです。近い将来の起業分野は、宇宙で、「清掃会社」を起業しなければならない時期が来ているのではないでしょうか。

 星々が煌めく世界が、賑やかな satellite がぶつかり合いそうな大気圏に変わっていくのは、実に悲しいことです。ここ栃木県では、時々、茨城県沖を震源とする、『ドスン!』と身体で感じる地震が起きています。どうも強烈な地震が起こる前触れのように予測されていて、やはり地球が火の玉を内部に抱えて、さらには宙に浮いている不安定さが気になってしまいます。地震、雷、火事、戦争の二十一世紀、どうなっていくのでしょうか。

(シルクロード、鄭和、地球の様子です)

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5points

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 わたしは、「救い」について、いわゆる「カルヴィニズムの5ポイント」を信じております。「ドルト信条」や「改革派教理」を学んだからではないのです。だれが何とおっしゃられても、自分の実情も救いも信仰も、いわゆる《 5 points 》の確信に違わなので驚いてしまうのです。

 『随分と高飛車で冷たい、手前勝手のことを信じているのですね!』と非難される方もおいででしょう。でも、少しもよいところのない人間なのに、こんなに驚くべき救いに、このわたしが預かれたのですから、そう言わざるを得ないのです。

 わたしは、中学生になったときに、運動部の高校や大学の先輩たちに仕込まれて、大人の世界を覗き込ませられました。それでも、みんなが堕ちていく中で、『きよく生きたい!』と願ったのです。幼い日から、クリスチャンの母に育てられ、祈られていたからでしょうか。ところが、マグマのような勢いで内と外からやってくる性の衝動に、勝てなかったのです。

 酒もタバコも拒絶できませんでした。『やめたい!』との願いがありながら、それを、し遂げる力が全くない、すっかり身も心も堕落した青年になっていました。自分の内には良いものなど何1つありませんでした・・・「全的堕落」。

 『イエスさまの十字架が、この自分の罪の赦しためであった!』と言うことが信じられたのです。それまで『精神的に錯乱して語っているのだ!』と思ってきた異言を語ってしまって、聖霊に満たされた瞬間に分かったのです。そんなわたしが赦されてクリスチャンとされたのですから、善行を積んで、合格点を取ったのではありませんでした。贈り物として、ただで頂いたのです。救いについての「条件」に何1つ、付け加えるような良い点はありませんでした。『救われるように!』と、だれ一人推薦してくれませんでした。祈ってくれた母の祈りによったのでもないのです。このあわれみ深い神さまは、そう願って母が祈るよりも遥か以前、生まれる前、いえ天地が創造されるよりも前に、「義」としてくださる「救い」に、このわたしをお選び下さっていたのです・・・「無条件の選び」。

 周りには、わたしよりも正しく立派に生きている友人が沢山いました。『どうして彼らではなく、自分が救われたのか?』、どう考えても理由が分かりません。イエスさまは、だれ一人滅びることを願いませんが、正しく見える彼らの救い主ではないのです。わたしのような取るに足りない、罪に負けて生きて来たような者のために十字架に死んでくださったのです。十字架の血は信じない人のためには流されてはいないのです。血が無駄にならないために・・・「限定的贖罪」

 それは、神さまからの一方的なご好意によったのであって、「恵み」以外の何ものでもないのです。罪の奴隷で、乞食のような惨めな私が、「聖」とされたとしたら、恩恵以外には考えられません。わたしに啓示的に示された聖句がありました。

 『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2章8~9節)」・・・「不可抗的恩恵」。

 そんなわたしが、60年もの間、信仰を持ち続けているのは、努力とか精進してきたことが、救いを堅持しているのではまったくないのです。飽きっぽくて移り気なわたしが、まだ信仰の中に留まり続けているとするなら、「子としてくださった」神さまにかかっています。「栄光化」してくださるまで、最後まで支え、守って、保持してくださると信じてやまないのです・・・「聖徒の堅忍」。

 これはカルヴァンやスポルジョンやカイパーが言ったからだけではありません。聖霊なる神が、みことばを通して、『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。』と、今も納得させられ続けてくださっているからであります。戦争があるのは、神のせいではなく、人の欲と頑なさ、罪によるです。ただ神にのみ栄光がありますように!

(「ジュネーブ」の街の風景です)

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一瞬、そして永遠を

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 「ダビデの賛歌」に、次のようにあります。 

 「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇1392324節)』

 時には、瞬間の「一瞬」と「とこしえ(永遠/永久)」があると言っていいでしょうか。次の一瞬を、次々に重ねて「時」が刻まれ、やがて分岐点に到達するのだと、聖書は言います。

 家内の母親は、筑後川で泳いだお転婆娘で、少女期には夏場、真っ黒だったそうです。天皇陛下だか皇族が、義母の街にやって来られた時に、お茶出しに接待嬢として奉仕したそうです。また最初の子を産んだ後に、天皇家の世継ぎの子(平成天皇として即位されます)の乳母候補にもなったそうですが、自分の子の養育を優先したのでしょうか、栄誉ある機会を、鄭重にお断りしたそうです。

 そんな義母は102歳で帰天したのですが、一緒に生活していた頃、よく言っていたことがあります。『ついこの間〈こんにちは〉と生まれてきたのに、もう〈さようなら〉と言わなかればならない、わたしの人生は瞬きの間のようでした!』と言って、老いを生きていました。

 戦後、食糧事情の悪い時の五人の子の養育は、東京では大変だったようです。埼玉県の農村に、嫁入りの時に持参した着物を持っては、食べ物と交換して生き延びたのだそうです。家内は、義母と一緒に電車に乗って出かけたのです。それで、身体を壊してしまいますが、アメリカ人宣教師との出会いを通して、クリスチャンとなります。それから、その信仰を全うしたのです。

 「時」について、聖書に次のようにあります。

 『天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。 殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。 泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。 石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。 捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。 引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。 愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。 働く者は労苦して何の益を得よう。 私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。(伝道者の書3111節)』

 神の創造の世界にも、人の営みにも、「初め」があって、「終わり」があるのだと言うのです。では一体、「瞬きの間」とか「一瞬」とか「刹那(せつな)」とか「たちまち」とは、どれほどの時間を言うのでしょうか。それを、ドイツ人の生物学者のユクスキュルは、「18分の1秒」だと、科学的に断言しています(「生物から見た世界〈岩波文庫〉)。

 『聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 』(1コリント155152

 人は、「束の間」を生きて、「一瞬一瞬」を重ねて足早に死の時を迎えるのですが、聖書は、厳粛にも、死後の行き先が、二通りあることを記します。朽ちない生を与えられ「永遠のいのち」を生きるか、「永遠の死」を過ごすかです。もし、そうであるなら、人はどれほど厳粛に「今」を過ごしているのかと言うことになります。聖書は、「一瞬のうちに」、「とこしえ」の世界に移されると断言するのです。

 やがて訪れる18分の1秒の「一瞬」を、どこで迎えるか、「光」なのか、それとも「闇」なのか、想像を絶するほどの大きな違いがあります。どこで過ごすかは、「永遠への思い」を創造者によって与えられた誰もの「今」にかかっていることになりそうです。

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