一瞬、そして永遠を

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 「ダビデの賛歌」に、次のようにあります。 

 「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇1392324節)』

 時には、瞬間の「一瞬」と「とこしえ(永遠/永久)」があると言っていいでしょうか。次の一瞬を、次々に重ねて「時」が刻まれ、やがて分岐点に到達するのだと、聖書は言います。

 家内の母親は、筑後川で泳いだお転婆娘で、少女期には夏場、真っ黒だったそうです。天皇陛下だか皇族が、義母の街にやって来られた時に、お茶出しに接待嬢として奉仕したそうです。また最初の子を産んだ後に、天皇家の世継ぎの子(平成天皇として即位されます)の乳母候補にもなったそうですが、自分の子の養育を優先したのでしょうか、栄誉ある機会を、鄭重にお断りしたそうです。

 そんな義母は102歳で帰天したのですが、一緒に生活していた頃、よく言っていたことがあります。『ついこの間〈こんにちは〉と生まれてきたのに、もう〈さようなら〉と言わなかればならない、わたしの人生は瞬きの間のようでした!』と言って、老いを生きていました。

 戦後、食糧事情の悪い時の五人の子の養育は、東京では大変だったようです。埼玉県の農村に、嫁入りの時に持参した着物を持っては、食べ物と交換して生き延びたのだそうです。家内は、義母と一緒に電車に乗って出かけたのです。それで、身体を壊してしまいますが、アメリカ人宣教師との出会いを通して、クリスチャンとなります。それから、その信仰を全うしたのです。

 「時」について、聖書に次のようにあります。

 『天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。 殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。 泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。 石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。 捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。 引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。 愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。 働く者は労苦して何の益を得よう。 私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。(伝道者の書3111節)』

 神の創造の世界にも、人の営みにも、「初め」があって、「終わり」があるのだと言うのです。では一体、「瞬きの間」とか「一瞬」とか「刹那(せつな)」とか「たちまち」とは、どれほどの時間を言うのでしょうか。それを、ドイツ人の生物学者のユクスキュルは、「18分の1秒」だと、科学的に断言しています(「生物から見た世界〈岩波文庫〉)。

 『聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 』(1コリント155152

 人は、「束の間」を生きて、「一瞬一瞬」を重ねて足早に死の時を迎えるのですが、聖書は、厳粛にも、死後の行き先が、二通りあることを記します。朽ちない生を与えられ「永遠のいのち」を生きるか、「永遠の死」を過ごすかです。もし、そうであるなら、人はどれほど厳粛に「今」を過ごしているのかと言うことになります。聖書は、「一瞬のうちに」、「とこしえ」の世界に移されると断言するのです。

 やがて訪れる18分の1秒の「一瞬」を、どこで迎えるか、「光」なのか、それとも「闇」なのか、想像を絶するほどの大きな違いがあります。どこで過ごすかは、「永遠への思い」を創造者によって与えられた誰もの「今」にかかっていることになりそうです。

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