仙台の病院で、鼓膜の再生手術をしたことがあり、市内の将監(しうげん)で、四日ほど入院しました。退院した足で、青葉城に登ってみたのです。そこは伊達政宗の居城で、彼を「独眼竜」と呼びます。戦場で負った傷だったとばかり思っていましたが、実は、幼少期に罹った「天然痘」で、右目を失明していたのです。
古代エジプトに起源のある「天然痘」は、長く人類の敵として、数多くの命を奪ってきました。日本には、大陸からの渡来人によって持ち込まれたと言われています。1796年に、「近代免疫学の父」とよばれたジェンナーの人体実験によって「種痘(牛痘接種)」という、ワクチンが誕生したことによって、制圧されるまで、続いたのです。
日本人は、古来、突如として襲ってくる「流行病(はやりやまい)」に見舞われて、どういったふうに、対処してきたのでしょうか。近代的な疫学の研究や保健衛生などのない時代、先人が残した知恵や、多分《閃き》、天来の知恵と言ったらいいでしょうか、それらで対処してきたのでしょう。
少なくとも、global な21世紀の日本列島で生きている私たちは、そのたびたび襲ってきた流行病をくぐり抜けて、命を受け継いできていることは確かです。例えば、私を産んでくれた母は、生まれて間も無く、流行った、〈伝染病〉に感染することなく、95歳まで生き抜きました。
幕末から明治には、1850年に、アメリカのミシシッピー号という船の乗組員によって、長崎に持ち込まれた、「コレラ」が流行っています。
日向国(現宮崎県)高鍋藩では、この流行病を、「ころり病」と呼び、次のようなおふれが発行されています。
『「臍の両脇一寸五分のところに折々灸治をして身を冷やさぬ」養生や、「少しでも吐瀉・腹痛など、いつもと違う症状のあるときには、はやく寝所に入り、飲食を慎んで体を温め、「芳香散」(漢方薬)を服用し医師へみてもらうこと」・・・』
この「コレラ」は、1880〜90年代にわたって、大流行したのです。大正時代に入ると、「赤痢」、「発疹チフス」が流行しています。大正期7年に、インフルエンザが流行り、それを「スペイン風邪」と呼びました。
この「スペイン風邪」による全世界の患者 は6 億人で、死者 が2300万人でした。日本では、国民の 5 人に 2 人に当たる 2100万人が感染、発症しています。なんと死者は38万人 にものぼっているのです。母は、島根県出雲市で生活をし、前年の1917年の三月生まれですから、感染の可能性はあったわけです。
新コロナ感染症(Covid19)では、〈三密回避〉とか 〈 social distance 〉とか言われて、〈マスクの着用〉が求められています。当時、どんな対策があったかが報告されています。
1 多数人の寄る所,ほこり立つ所へは行 かぬがよろしい
2 悪性感冒の病人には接近せぬように注 意せられよ
3 せきをするとき,ハンカチで口を覆い, また,たんを吐き散らさぬようになさい
4 鼻毛をそらぬよう,また胃腸をこわさぬように用心せられよ
5 日々丁寧にうがいをし,口内,のどを清潔にせられよ
6 うがい液御入用の方は本会事務所ヘビ ール瓶お持ちあれば差し上げます
7 食振るわず少しでも身体だるく,また 熱あると思えば,早く医者に治療を受けられよ(大阪府衛生会)
100年後の今と、あまり変わらない生活上に注意事項だったわけです。人類の歴史は、飢餓や戦争と共に、この流行病と闘ってきた歴史と言えるでしょうか。きっと、新型コロナ感染症も制圧され、流行の終息を迎えることと信じています。
私たちに必要なのは、正しい科学的な知識であって、基本的な予防なのでしょう。親に言われて、家に帰ると、手洗いやうがいをするように言われて、身につけた生活習慣を守ることなのでしょう。結局は、《注意深さ》なのでしょうか。もう一つは、「自粛警察」的な社会的な責任追求や責め、さらに「ケガレ」とされる〈差別〉があるようです。だれにでも起こることであって、地域社会全体、国全体、地球的な規模での協力と理解でしょうか。
(独眼竜の政宗、マスク姿の古写真です)
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