爷爷

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 同じ年に生まれた小椋佳が、五十代に、「山河」と言う詩を書き、ご自分でも歌っています。企業に勤めながら、作詞や歌手活動をしてきた方です。

人は皆 山河に生まれ 抱かれ、挑み、
人は皆 山河を信じ、和み、愛す、

そこに 生命をつなぎ、生命を刻む
そして 終いには 山河に還る。

顧みて、恥じることない 足跡を山に 残したろうか
永遠の 水面の光 増す夢を 河に浮かべたろうか
愛する人の瞳に 愛する人の瞳に
俺の山河は美しいかと。 美しいかと。

歳月は 心に積まれ 山と映り
歳月は 心に流れ 河を描く

そこに 積まれる時と、流れる時と、
人は誰もが、山河を宿す。

ふと想う、悔いひとつなく悦びの山を 築けたろうか
くしゃくしゃに嬉し泣きする
かげりない河を抱けたろうか
愛する人の瞳に 愛する人の瞳に
俺の山河は美しいかと。

顧みて、恥じることない 足跡を山に 残したろうか
永遠の 水面の光 増す夢を 河に浮かべたろうか
愛する人の瞳に 愛する人の瞳に
俺の山河は美しいかと。 美しいかと。

 同じ時代の風にあたりながら、歳を重ねてきたこの人が、自分の人生の年月を、山や川になぞらえて詩にしたわけです。今年引退を決意されると聞きました。人生に「美しさ」を求めて生きてきたのでしょうか、「美しく」終わろうとしているのでしょうか。

 戦争末期に生まれ、焼け野原だらけの中から、奇跡的に復興していく日本の社会の中で、育てられ、平和教育を受けて成長して、大人になっていったわけです。歌手に提供する歌詞を書き、市歌や校歌の作詞もされ、自らも歌って来た方です。自分は、folk song には全く関心がなかったので、この方の歌った歌で、知ってるものはありませんが、越し方を顧みて、詩を読むと言うのは素晴らしいなと思います。

 自分の歩みを顧みますと、両親に愛され、父の寵愛を受けていたようで、兄たちには、いろいろな話を聞くと、けっこう迷惑な弟だったのかも知れません。学校に上がる前に病気をしたので、可哀想に思ったに違いありません。

 死に損ないが生き返ったような幼少期だったのですが、死の恐怖はなく、怖さ知らずで、危なっかしいことを平気で無茶して生きていたのです。あの兄たちに妬まれた、ヤコブの子のヨセフのようだったかも知れません。でも、そんなことで意地悪をするような兄たちではなく、いまだに弟思いの兄なのです。

 この方のように、「美しさ」を求めて生きて来たことは、自分にはないのです。病弱だったからでしょうか、逆に「強さ」を求めて生きて来たのは確かです。口先では勝てないので、腕っ節の「強さ」を身につけたかったのかも知れません。私の弟は、意志も腕っ節も強く、それでいて優しいのです。なんだか兄が三人もいるように思う時があります。

 『目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。1コリント1613節)」

 でも本当の「強さ」は、心の内に蓄えられたものに違いありません。謙虚さや我慢強さや忍耐力なのでしょう。聖書は、《男らしさ》を記して、《男らしくあれ》、《強くあれ》と勧めます。もしかすると、生きる厳しさの中に見せる「柔和」こそが《男性美》の局地なのかも知れません。上京中、友人の家の高校生になるお嬢さんが、家内には、『先生!』ですが、私には「爷爷yeye」と言う意味で、親しみを込めて『お爺さん!』と呼びかけてくれました。そう言われたのは孫以外で初めてなので、いいものです。まだまだ、さらに「強さ」を求めたいと願う、喜寿に至った私であります。

(“いらすとや” の「おじいさん」です)

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親心

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 日韓の関係が悪くなる前、1974年に、初めての韓国への旅行をしました。空港を降りて、案内板などを見ましたが、ハングル文字で書かれていて、全く理解することができませんでした。何とかバスに乗ったのですが、バスの系統の数字だけが判読できただけだったのです。下手な英語で、その晩泊まるように予約してあった、ユースホステルに、やっとのことで着くことができました。そのホステルの責任者は、上手に日本語が話せて、いろいろな話を聞かせてくれたのです。

 この旅行の前の8月6日に、長女が隣町の授産所で誕生したのです。そこはハエや蚊が飛んでいて、蚊取り線香が灯っているような施設でした。産科の病院より低料金でしたし、家からも近くて便利でしたので、『まあいいか!』と言うことでお世話になったのです。助産婦さんが生まれたばかりの長女を抱いて、『いいボコが出たじゃん!』と、その地方の方言で言っていました。家内は男の子だとばかり思ってオシメを替えたら、女の子だったのです。本当に驚いてしまったわけです。その「ボコ」を男の子だとばかり思っていたからです。

 最初の子が、色白だったのに比べ、この子はちょっと健康色をしていて、見るからに丈夫そうでした。オッパイを欲しがる時以外は泣かないし、そのオッパイを勢いよく吸い、いつも足りない感じだったのです。乳児用の湯桶は使わず、一緒に風呂に入れると、熱いお湯に肌を赤くして、じっと我慢して入っていました。もう健康児そのものでした。

 その誕生の直後の旅行だったのです。ソウル滞在中の8月15日に、韓国の朴大統領が狙撃され、夫人が流れ弾に当たって亡くなる事件が起こったのです。前の大統領が、そのお嬢さまで、恩赦になったのを聞いて思い出しています。あのとき、犯人が日本人だと、ソウルで聞いたのです。『反日感情に火が着いて、報復が行われないか?』とか『日本に帰れるだろうか?』と、会議に参加していた、他の日本人の間で囁かれ始めたのです。結局、拘束された犯人が、北朝鮮系の人物だということが分かって、ホッとしたのです。そんな父親の心配をよそに、長女はスヤスヤ寝ては、チュウチュウと乳を飲んでいたようです。

 小学生の時に、その長女は、愛知県に一人で旅行をしたことがありました。我が家で一緒に生活をしていたことのある若い女性を訪ねてでした。それで娘に、「旅行心得」を書いて持たせたのです。『見知らぬおじさんが声を掛けてきても、ついていかないこと!』などと書きました。彼女は、楽しい旅を終えて喜んで帰って来たのです。中学では、いじめをする上級生を懲らしめたり、逞しく生きていました。

 高校の時は、スーパーマーケットでアルバイトをし、先生の失恋の相談に乗ったりしていたのです。大学では蕎麦屋でお運びなどのアルバイトをしたりしていました。卒業すると、私のすぐ上の兄に留学資金を借りて(何年かかけて返済しましています)、アメリカに出かけて行き、大学に入学してしまいました。卒業と同時に、ロサンゼルス近郊で仕事を見つけて就職してしまったのです。

 その後、シンガポールで十年間働き、結婚後の今は、ホノルルにいます。ピアノが上手で、人の気持ちを汲んで面倒見の好い、自活力の旺盛な長女です。この正月は、またぶり返したコロナ感染の只中の正月を迎えて、今日あたりは、ゆっくりと過ごしていることでしょう。

 アメリカのコロナ感染者数が、昨日は、54万にもいるのを知って、ちょっと心配で心が騒ぎます。暮れに出かけた時の市内運行バスの運転手が、「第6波」が、年明けに起こると言っていた言葉を思い出します。人並みに持つ親心でしょうか、子どもたちの毎日が気になります。正月には、元気な長男と次男にはあ会えたのですが、遠くに居て帰って来れない長女と次女が心配なのです。娘たちの家族も、主の守りがあるようにと祈る、親なのです。

(小旅行のひばりが丘・落合川の遊歩道で見かけた「カワセミ」です)

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福袋

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 いつでしたか、お話をしていて、『どんなに長くお邪魔しても、実家でさえ三日が限度でしょう!』と言われたことがありました。『遊びにおいでください!』とお誘いを受けて、お土産を持って、知人宅を訪ねたら、小声でしたが、『わー、来ちゃった!』という、その家の奥さんが言ってるのが聞こえて、自分たちの世間付き合いの〈甘さ〉を、ゴツんと教えられたのです。

 人の言葉に、どう応答するかは、よく考えないといけない、と言う学課を、その時学んだのです。あの訪問はいづらかったのですが、嫌がられてのしばらくの時間は、〈針の筵(むしろ)〉の上のようでした(ご主人は歓迎ムードでした)。家庭婦人という立場は、大変なのでしょう。家内は、どうかと言いますと、来客歓迎で、ありのままで迎えて、今日に至っています。訪問客には、様々な印象があるのでしょうが、迎える私たちにこだわりがありません。家内は、いつでも大歓迎でした。

 今、昨年の暮れの29日に迎えに来ていただき、友人宅にお邪魔していますが、彼も奥さんも、『十日はいてください!』と言ってくれています。居心地がいいので、もう一方の日本人の〈甘え〉で、今日で八日になってしまいます。若い中国人の家族が、入れ替わり立ち替わり出入りしている家で、子どもたちや夫婦間の問題に、advice を、よくされています。

 彼らは、食事を作っては、もてなし、来客の子どもがヤンチャをしていると、奥さんは叱っています。他人の子への無関心で、それなのに心の中では、『なんて躾がなってないんだろう!』などと思う日本人とは違う応対をしている、そうできる人たちで、『偉いなあ!』と思うのです。

 昨日の午後は、『新橋のデパートに福袋を取りに行って来ます!』と言って出かけて行きました。午前中は、花小金井にあるスーパー入浴施設に連れて行ってくれ、温泉を楽しませてくれたのです。奥さんをそこに残して、私を、同行しなかった家内のいる家に送ってくれ、奥さんを温泉で拾って、お嬢さんと出かけたのです。

 彼らの福袋だと思っていたら、家内と私にと、暮れに予約しておいたものを取りに行ったのです。『お客ではなく、家族ですよ!』と言うし、親のように慕ってくれる彼らに感謝して、《客气keqi/遠慮》をしてしまうと、彼らは叱るのです。それが、彼らの「本心」なのです。〈嫌はいや〉、〈好きはすき〉をはっきりさせる国民性なのでしょう。本心を隠してしまう日本人とは違うのです。

 遠慮の日本人の私は、ずいぶん無遠慮になっていますが、今日の午後、上の息子が母親を送ってくれると言うので、『栃木に帰る!』と言ったら猛反対していましたが、強引に納得さしてもらったのです。『ジャンケンしよう!』と言ったら大笑いをしてしまうほどの、良い関係が彼らと私たちの間にあります。

 息子が、華南の街を訪ねた時、空港に迎えに行ってくれ、彼らの家に泊めてくれたことがありました。言葉が両者は違い、理解できないのに、《愛の理解力》が働いたのです。正月の二日には、下の息子夫婦も呼んでくれて、一緒に団欒と祝辞の時を設けてくれました。

 ベランダや室内ののグリーンも生きていますから、放って置けないのが、帰宅の理由です。一部屋を、私たちの住まいにするからと、引っ越しを提案してくれるほどの若き、異国の友人がいて感謝な交流を楽しでいます。なんだか、今日の午前中には、「角上」と言う魚屋さんで、お土産を買って持たせてくれると言っています。《限度なしの交際》は、私たちの宝です。夜が明けようとしてしています。

(朝食の食卓です)

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愛の連鎖

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 暮れから、ひばりが丘の友人宅におります。家内の故郷は、かつては松林や麦畑だったのだそうです。昔日の感もなく、思い出だけが残っているのでしょう。それ以前の江戸時代には、武蔵野の櫟林(くぬぎばやし)の原野が広がっていたことでしょう。朝、散歩をしていて、踏切で、電車が近づいているのを知らせる、鐘の音が聞こえてきて、遮断機が降りて、目の前を電車が通過して行きます。子どもの頃を呼び起こすような風景や音を見聞きしている正月です。

 この辺りには、「野火止」の地名が残ってのですが、江戸を火から守っていたのでしょう。同じように、江戸を火の戦禍から守って、江戸城を無血開城する様に、薩長の倒幕軍に進言したのが、直参旗本の勝海舟だったのです。いわば東京都の最高の功績者だと言えます。明治維新以降は、要職に就くのですが、すぐに海舟は辞任すると言うことを繰り返すほどで、出世欲や金銭欲の強くない人だった様です。

 この勝海舟に師事した人に、米山梅吉がいました。梅吉は1868年に江戸に生まれ、沼津で育ち、青山学院(当時は東京英和学校)に学んだ後に、アメリカに留学をしています。帰国後、勝海舟に師事しているのです。銀行家として生きた方で、晩年には、青山学院の小学校の校長も歴任しています。彼は、日本に"ロータリークラブ"を設立した人でした。

 このクラブは、社会奉仕と国際親善を目的として、1905年、アメリカのシカゴに最初のクラブが誕生しています。このメンバーは、当初、クラブにおいて1業種1人が原則であったのですが、現在、その決まりは緩められている様です。

 ロータリークラブの理念は、「人道的な奉仕を行い、すべての職業において高度の道徳的水準を守ることを奨励し、世界においては、親善と平和の確立に寄与することを指向した、事業及び専門職務に携わる指導者が世界的に連携した団体である。」とされています。

 銀行家として活躍しながら、社会への奉仕を続けてきた梅吉は、クリスチャンでした。この方が亡くなった後、1967年に、文部省を主管官庁とする、海外からの留学生への経済援助や心のお世話を含んだ、奨学金事業を設立しています。それが「ロータリー米山記念奨学会」で、「勉学・研究のために日本に在留している私費外国人留学生に対し、日本全国のロータリアンからの寄付金を財源に奨学金を支給し支援する、民間の奨学財団です。」と奨学会のサイトにあります。


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 実は、私たちのお世話をしてくださった姉妹は、国立S大学の大学院に留学してる際、この奨学金を受けていたのだそうです。その援助のお陰で、博士号を取得して、大学の法学部で、教壇に立っておられます。この方の教え子で、厦門で弁護士をしている方が、私たちをおうちに一泊させてくれたことがありました。送り迎えもしてくださったのです。駅に送っていただいた日の午前中には、裁判があって、弁護をされていた のにでした。

 そんなことを思い出しています。どうも、目に見えない《愛の連鎖》と言うものが、確かにあるのだということが分かります。愛を蒔くなら、愛を刈りとるという「原則」なのです。多くの愛と親切と犠牲とがあって、奨学金を得て、日本で学業をし、母国の若者を教えていくと、その教え子たちが、恩師が学んだ国からやって来た私たち夫婦のお世話をしてくれるという絆です。

 今回、上京した私たちをお世話くださっている方は、華南の街で、家内が日本語クラスで教えていたお嬢さんのお父さんなのです。そんな出会いで、行き来が始まり、パン製造をされている工場で、聖書研究会がもたれて、従業員のみなさんと賛美し、お話をさせていただきました。その繋がりが、いまだにあって、暖かなもてなしを受けています。

 このような正月を過ごすのは初めてのことで、訪ねて来られる中国のみなさんや、昨日は、同じ教会で交わりをしていたご夫妻が、ご長男と一緒に訪ねて来られ、その交わり楽しみました。夕食までもご夫妻で用意してくださって、5時間も交わりをさせていただいたのです。

 

(「田無駅(ひばりヶ丘駅)」、「野火止用水」です)

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宣教

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『ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。(使徒16章31節)』

 30年以上前になるでしょうか、牧師や伝道者たちの大会に出た時に、瀬戸内海を小船で巡回しながら牧会伝道をされている、同世代の伝道者に会ったことがありました。島から島へと、一人、二人の信者さんを訪問して、集会を持つ奉仕をしていると言っていました。彼らには、〈一千万救霊〉の旗印が上がる中、大教会志向の思いなど全くなかったのです。

 ある方は、大都市で成功的な働きをしていきたいと、意気揚々としていました。さまざまな思いで、救霊活動に従事していて、それでも、アジア圏の中では、最も伝道困難なのが、日本だと言われ続けてきています。アメリカの神学校で学んで、ある人はフリピンに、ある人はインドネシアに、ある人は日本に宣教のために出かけて行きます。

 何年も経って、それぞれの国から神学校の mission 報告会に集ったのです。フィリピンへ行った卒業生は、意気揚々と、『5万人もの受洗者がありました!』と報告して、拍手喝采を浴びました。ところが、日本に出かけて行った卒業生は、『やっと去年はじゅ、、、十人の人が受洗しました!」』、恥いるようにreport したのだそうです。

 この違いは何なのでしょうか。同じほどの間、同じように教育や訓練を受け、同じようなvision や情熱を持っていたのに、数的な奉仕の結果には、雲泥の差があったのです。能力の問題なのでしょうか、人格の違いなのでしょうか。悩み苦しみながら精一杯に、日本人を愛し、仕えたのに、裏切られたり、誤解されたりして、病んだりしてしまったのです。

 私を導いた宣教師は、聖書の教えに優れた器でした。人としても柔和で、謙遜な方でした。宣教報告で帰国すると、日本では出て苦しんでいた胃潰瘍が、全く出ないのだそうです。最後には、前立腺がんを病んで、日本の病院に入院中に、天に帰って行かれました。彼は失敗者なのでしょうか。成功か失敗かは、信者の数によって測るのでしょうか。
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 エスキモーに宣教した方は、何年も何年も福音宣教に励みましたが、誰一人救われませんでした。失意の中にいたのです。一方、エスキモーの部落では、クジラが、全く獲れませんでした。『主イエスは救い主です!』と伝えても、一向に耳を傾けませんでした。そこで、エスキモーたちは、『クジラが獲れたら信じてもいい!』と、その宣教師に言ったのです。

 ところが事故があって海岸の崖から落ちて亡くなってしまうのです。エスキモーたちは、崖を降りて、その宣教師を探したのです。亡くなった宣教師を見つけたのです。その時に、その亡骸の脇に一頭のクジラがいたのです。その一件から、エスキモーの間に、信仰のリバイバルが起きて、その部落の人たちが全員、キリスト信仰に導びかれたのです。

 宣教師は、失意のままなくなり、エスキモーの間に、信仰の覚醒が起こったことも知らないまま、何の報いもなく地上の生涯を終えたわけです。これは作り話ではありません。人が救われるのは、《聖霊の業》であって、人の能力や人格にはよりません。ロバの骨でも、遊女でも、神は用いて不思議なことをされるのです。
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 文化庁の発刊した「宗教年鑑」には、宗教統計調査の結果が報告されています。ただし信者数は各宗教法人からの報告ですので、重複することもあって、全宗教法人から報告された信者の総数は約1億8113万人と、実人口約1億2615万人(2019年12月1日時点、概算値)の約1・44倍となっているのです。

 「キリスト教系」の宗教団体には、一般にキリスト教界からは「異端」とされている末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)や、ものみの塔聖書冊子協会(エホバの証人)、世界平和統一家庭連合(統一協会)なども含まれていて、「192万人」になるそうです。異端以外の正当なキリスト者数は、「100万人」になります。次のような統計があります。

 『東京基督教大学(千葉県印西市)の国際宣教センター内に設置されている日本宣教リサーチ(JMR)が、『キリスト教年鑑』『日本カトリック司教協議会イヤーブック』『クリスチャン情報ブック』のほか、各教団発行の資料などを基に行った調査によると、2017年度の日本のキリスト教信者の概数は105万人で、全人口に占める割合は0・83%とされている。』とのことです。

 これも実際の数とは言えないようです。幕末から明治にかけて、キリスト教伝道が始まっていますが、いまだに日本では、クリスチャンの数はわずかと言えます。仏教や神道の信仰の強い地の出雲で、カナダ人宣教師の殿堂の中で、14歳で、私の母は信仰を持って、95で召されるまで、その信仰を守り通し、何人もの方を同じ信仰に導きました。その母から、二人の牧師、一人のキリスト系高校の教師が生まれました。

 こんな飽きっぽい、駄目な私が、クリスチャンとされたのは、ただの憐れみ、恩寵によります。そんな私を見て育てられた子どもたち4人は、みんなキリスト信仰を持って生きているのです。孫たちも同じように信じています。一人の孤独な、しかも実の親の愛を受けられなかった少女の生涯に、生きる希望を与え、神が父であることを示して、信じたのは、宗教ではなく、キリストでした。《救われる者は救われる!》からなのでしょう。

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元旦

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 正月元旦、父の家では、暮れからおせち料理を、母が作って準備してくれて、それを家族で食べました。醤油を買いに行かされた覚えがあります。今のように、スーパーマーケットで、なんでも揃う時代とは違って、各家庭が、両親の育った田舎の伝統的な味に調理していたのです。たくさんの種類の食材を、一緒くたに煮て作るのではなく、一つ一つを鍋で煮るのです。しかも、今のように、ガスコンロがあるわけではなく、七輪に炭をおこして、その上で煮ていました。

 三段重ねの重箱には、買ってきた出来合いの蒲鉾や伊達巻が同じ厚さで切り揃って入れられていました。山陰出雲に生まれた母の味ではなく、神奈川横須賀の父の味に合わせて作っていたのだと思います。お雑煮は、お米屋さんが暮に届けてくれたのを、父が几帳面に切って、餅箱に同じ大きさに切り備えた餅を、『いくつ食う?』と聞いては、6人分を、七輪の上で父が焼き、鶏肉と小松菜を具にしたつゆの中に入れて、ひと煮立ちしていました。

 みんなが自立するまで、毎年繰り返されて来た、暮れから正月の様子でした。所帯を持った私の家でも、家内が一生懸命に正月料理を作ってくれました。亭主関白のわが家では、父の関東風の雑煮でした。今の反省は、家内の家庭の味にしてもらっておけばよかったと思っても、後の祭りです。

 今年は、私たちが長く過ごした中国華南の海浜の村で育った、若き友人宅にお邪魔していて、「过年guonian」、日本の大晦日の年越し料理をいただきました。私たちを含めて4家族で、食材を持ち寄り、ご夫婦が入れ替わり立ち替わりで料理を作ってくれたのです。もう久し振りになる、中国の家庭料理をいただきました。

 子どもたちが第一部で食べ、大人が第二部で、テーブルを囲んで、和気藹々の年越しをしたのです。『美味しかった!』の一言に尽きます。語らいをしながらの素晴らしい《振る舞い》、《もてなし》に感謝と喜びで箸を運んだのです。ご主人たちが台所に立って、率先して調理してくれていました。

 招いてくださった夫妻が、手広く華南でパンの製造をされている関係で、今朝の元旦の朝餉は、一年の初めにあたって、感謝の祈りで始まりました。パン食でした。私も、今年最初の調理で、レタス、黄と赤いのパプリカ、胡瓜、人参、玉ねぎに、刻んだニンニクとピーナッツ、干し葡萄を入れ、バジルなどでドレッシングを作ったサラダだったのです。おせちはなかったのですが、デザートに果物の美味しい年初の朝食でした。

 元旦の夕方は、『下の息子さん夫婦を呼んで、一緒にどうですか?』と言ってくださったので、招いたら来てくれて、談笑しながら、子どもたちも加わって10時ごろまで、テーブルを囲みました。息子夫婦の来訪を喜んだのです。主の模範に倣って、《食べること》、《愛餐》には深い意味があるのですから、そのようにして、新しい年を迎えられたことに感謝した一日でした。

(ご主人の会社で作った物に衣をつけて油で揚げた中国のお餅の「年糕niangao」です)

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新年のご挨拶

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「朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。私に行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。(詩篇143篇8節)

愛するみなさま

新しい2022年を迎えて、期待を胸に膨らませております。お元気に、新年をお迎えのこととお喜びいたします。

大変ご無沙汰をしております。ここ栃木で、三度目の新年を迎え、神さまの計り知れない恵みをいただいて、感謝な年を迎えました。

免疫力が増すように励んでいる家内も、コロナ禍ですが、市役所や郵便局、図書館や市民会館に散歩がてらに出かけて、散歩仲間が与えられています。時々、たくあんや小松菜や和菓子などを持って、遊びに来てくれる方たちもおいでです。もうすっかり馴染んで、栃木市民になり切っております。人生の展開の不思議さに驚いたり、感謝したり、素敵な人や自然に出会えております。町内の福寿会と言う年寄の交わり会に入って、この秋には、鍋山という村に遠足に行き、名水で作った日本そばを食べに出かけました。とても美味しかったのです。また日曜日の朝の、ラジオ体操会にも一緒に参加して、一年の参加のご褒美に、即席ラーメンなどをいただきました。

主の憐れみと、愛するみなさまのお祈りと激励によって、生かされております。四人の子どもたちの家族も、家内の姉妹、私の兄弟も元気に過ごしております。この写真は、ご両親が県北で牧会されてる、そのお嬢さんが、近くにいらっしゃって、良い交わりを持ち、一緒に、夏前に、三毳(みかも)山に出かけた時の写真です。

人の世の出来事だけを思ったりしていますと、不安になりますが、全てをご支配される神様のことを思いますと、希望が湧いてまいります。 好い一日一日をお過ごしください。 主が共にいてくださいますようにお祈りしています。

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