爷爷

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 同じ年に生まれた小椋佳が、五十代に、「山河」と言う詩を書き、ご自分でも歌っています。企業に勤めながら、作詞や歌手活動をしてきた方です。

人は皆 山河に生まれ 抱かれ、挑み、
人は皆 山河を信じ、和み、愛す、

そこに 生命をつなぎ、生命を刻む
そして 終いには 山河に還る。

顧みて、恥じることない 足跡を山に 残したろうか
永遠の 水面の光 増す夢を 河に浮かべたろうか
愛する人の瞳に 愛する人の瞳に
俺の山河は美しいかと。 美しいかと。

歳月は 心に積まれ 山と映り
歳月は 心に流れ 河を描く

そこに 積まれる時と、流れる時と、
人は誰もが、山河を宿す。

ふと想う、悔いひとつなく悦びの山を 築けたろうか
くしゃくしゃに嬉し泣きする
かげりない河を抱けたろうか
愛する人の瞳に 愛する人の瞳に
俺の山河は美しいかと。

顧みて、恥じることない 足跡を山に 残したろうか
永遠の 水面の光 増す夢を 河に浮かべたろうか
愛する人の瞳に 愛する人の瞳に
俺の山河は美しいかと。 美しいかと。

 同じ時代の風にあたりながら、歳を重ねてきたこの人が、自分の人生の年月を、山や川になぞらえて詩にしたわけです。今年引退を決意されると聞きました。人生に「美しさ」を求めて生きてきたのでしょうか、「美しく」終わろうとしているのでしょうか。

 戦争末期に生まれ、焼け野原だらけの中から、奇跡的に復興していく日本の社会の中で、育てられ、平和教育を受けて成長して、大人になっていったわけです。歌手に提供する歌詞を書き、市歌や校歌の作詞もされ、自らも歌って来た方です。自分は、folk song には全く関心がなかったので、この方の歌った歌で、知ってるものはありませんが、越し方を顧みて、詩を読むと言うのは素晴らしいなと思います。

 自分の歩みを顧みますと、両親に愛され、父の寵愛を受けていたようで、兄たちには、いろいろな話を聞くと、けっこう迷惑な弟だったのかも知れません。学校に上がる前に病気をしたので、可哀想に思ったに違いありません。

 死に損ないが生き返ったような幼少期だったのですが、死の恐怖はなく、怖さ知らずで、危なっかしいことを平気で無茶して生きていたのです。あの兄たちに妬まれた、ヤコブの子のヨセフのようだったかも知れません。でも、そんなことで意地悪をするような兄たちではなく、いまだに弟思いの兄なのです。

 この方のように、「美しさ」を求めて生きて来たことは、自分にはないのです。病弱だったからでしょうか、逆に「強さ」を求めて生きて来たのは確かです。口先では勝てないので、腕っ節の「強さ」を身につけたかったのかも知れません。私の弟は、意志も腕っ節も強く、それでいて優しいのです。なんだか兄が三人もいるように思う時があります。

 『目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。1コリント1613節)」

 でも本当の「強さ」は、心の内に蓄えられたものに違いありません。謙虚さや我慢強さや忍耐力なのでしょう。聖書は、《男らしさ》を記して、《男らしくあれ》、《強くあれ》と勧めます。もしかすると、生きる厳しさの中に見せる「柔和」こそが《男性美》の局地なのかも知れません。上京中、友人の家の高校生になるお嬢さんが、家内には、『先生!』ですが、私には「爷爷yeye」と言う意味で、親しみを込めて『お爺さん!』と呼びかけてくれました。そう言われたのは孫以外で初めてなので、いいものです。まだまだ、さらに「強さ」を求めたいと願う、喜寿に至った私であります。

(“いらすとや” の「おじいさん」です)

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