交わりの回復

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この写真の花は、アメリカのウエスト・ヴァージニアに咲いている花です。まだ若かった頃、私たちの家の近所に住んで、同じ様に子育てをしながら、主と教会に仕え、聖書を共に学び、共に働き、教会の礼拝堂を、基礎づくりから始めて建設した友人から送信さた写真です。

この二人も私たちも、4人の子に恵まれ、奉仕と子育てで、アッという間の4〜5年、共に行き来をしながら交わりを持った家族です。上のお嬢さんが、長女と同年齢で、同じ幼稚園にも通ったのです。きっと彼らには、短気で粗野な私に忍耐した年月だったことでしょう。その4人の子を連れてアメリカに戻り、それぞれの社会的な責任を終え、同じ様に人生の黄昏期を迎え、最近、メールのやり取りが始まったのです。

互いの消息を聞き合い、互いの必要のために祈りの課題をも分かち合う時になっています。家内の闘病にも、温かな励ましを向けてくださり、祈りをもって支えていてくださるのです。そういった年齢になった、つまりお子さんたちやお孫さんたちが、どうしてるか知ろうと、交わりを求めて時々訪ねてくれてるそうで、そんな楽しみをしているそうです。

街のYMCAで、ご主人は英語教師として働きながら、教会生活を共にし、学びあったのです。奥さまは料理上手で、石油ストーブでパンを焼かれ、美味しくいただきました。食事の行き来もありました。実に懐かしい時代なのです。

ニューヨークからも、そう遠くない地に、家を見つけられたのでしょうか、美しい自然の中で、素敵な今を過ごしておいでです。ご主人はギターを、奥様はバイオリンをじょうずに弾かれておいででした。精一杯生きてきて、お互い静かな知己を過ごすことができているのは、感謝なことだな、と思えます。

 

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スパティフィラム

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 今頃でしょうか、もう少し早い時期でしょうか、中学の担任の先生に誘われて、「水芭蕉」を観に行く尾瀬の旅に行くのを楽しみにして、待っていた時がありました。ところが体調が悪くなって、行けなかったのです。今になっても悔しかったのを思い出すのです。

 それ以来、「尾瀬の水芭蕉」は、思いの中だけで、六十数年経った今でも温存されています。先日の母の日の贈り物に、次男夫婦が花籠(5種類の花苗鉢)を贈ってくれたのですが、その中に、「スパティフィラム」という花の小鉢がありました。

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 熱帯植物で、中央アメリカや東南アジアの熱帯の森林の湿地に自生する花だそうです。この花が、水芭蕉に似ていて、叶わなかった水芭蕉鑑賞旅行を思い出したわけです。

 その水芭蕉を調べていましたら、この栃木県下にも、自生地があることが分かったのです。湯西川温泉の奥の「土呂部(どろぶ)」の栗山です。きっと車があったら、スッ飛びで直行しているに違いありませんが、写真と、スパティフィラムを観て満足しているのです。来年、行ってみたいな、の五月中旬です。

 このブログは、「花日記」になりつつありますね。花を愛で、花に慰められて花を育てる心が与えられ、今を生きられて感謝です。

(「“日光フィファ山荘”元単身赴任日記」から)

 

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為すべきは労働

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「 人はその口の実によって良いものに満ち足りる。人の手の働きは、その人に報いを与える。 (箴言12章14節)」

 昨夜、働いている時の夢を見ました。子育て中のこと、息子が、『お父さん、ボク高校に行けるの?』と聞いてきたことがあったのです。彼なりに家の財政上の様子を考えて、ちょっと不安になったのでしょう。彼は、『新聞配達をさせて欲しい!』と許可願いをして、親の承諾を得て始めたのです。中学校の近くにあった、高校受験の予備校に、そのバイト代の収入で通ったのです。人気の予備校で、その隣りにあった公園のフェンスの傍には、中学生の乗ってきた自電車が溢れかえっていました。

 そんな思いを知って、私は、スーパーマーケットの床掃除を始めたのです。学校に行っていた頃に、兄の務めていた外資系のホテルで、客室関係の仕事をした関係で、床を洗ったり、磨いたりした経験があって、それで月2回ほど、夜間の仕事を始めたのです。チェーン店の他の店の掃除も頼まれましたが、一店舗だけ、20年ほど続けたでしょうか、その収入で、子どもたちに教育を受けさせることができたのです。

 その始めたきっかけが良かったし、日本の景気の良かった時代もあって、高収入だったのです。夜、11過ぎに、車にポリシャーやスクリッパー、ワックス、モップなどを乗せて店で、4、5人のスタッフで明け方まで、ワックス仕上げをする仕事でした。本業以外からの副収入は、息子の願いを叶えることができ、大学にも行くことができ、援助はしませんで、大学院まで行くことが、彼にはできたのです。

 その息子は、今、私がしていた同じ仕事をし、同じ様にサイドワークもしながら、子育てに専心しています。それは実に充実していた日々でした。アルバイトを雇って、資材を購入し、美しくピカピカの床に仕上げる仕事が好きでした。そんなで夜明けを迎え、仕事を終えると、いっぺんに心地よい疲労が出てきたのです。内村鑑三が、「為(な)すべきことは労働である」との一文を残しています。

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 『口を以(もっ)てする伝道ではない、筆を以てする著述ではない、策略を以てする政治ではない、手と足とを以てする労働である、労働に由(よ)らずして智識以上の智識なる常識は得られない、労働は労働としてのみ尊いのではない、信仰獲得井(ならび)に維持の途(みち)として、常識養成の方法として、愛心喚起の手段として又最も尊いのである、キリストに於(お)ける信仰は文に頼(たより)て維持することは出来ない、語るを知て働くを知らざる者は大抵は遠からずしてキリストを棄(すて)る者である、福音は神学ではない労働である、聖書の最も尊き注解は神学校より来る者にあらずして、田圃(たんぼ)より、又は工場より、又は台所より来る者である、労働なくして身は飢え、智識は衰(おとろ)へ、霊魂は腐る、労働を賤(いやし)む者は生命を棄る者である、労働是れ生命と云(い)ふも決して過言ではない。』

 労働と言うのは、『田圃(たんぼ)より、又は工場より、又は台所より来る者である!』と言っています。もちろん精神労働もありますが、農や工や商、さらには家事にも関わる仕事を「労働」と呼んでいます。自らに、さらには、家族に、社会に対して「生命」をもたらす「生業(なりわい)」のことです。

 今、黄金色に成長した大麦の刈り入れを終えた耕地に、水が張られ、農夫によって田植えが行われています。北関東平野で、ずっと行われ続けてきた業です。人に「生命」を与える仕事、労働です。日本の「農」が衰退し続けている今、それでも絶え間ない労働がここでは行われています。お米も野菜も果物も美味しいのです。より安全なものの生産に苦心している方たちがおいでです。

 

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努力

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1916年に開催予定の第6回オリンピックベルリン大会は、第一次世界大戦の戦果拡大のために中止されました。さらに、第12回東京大会は、1940に開催を予定していましたが、第二次世界大戦が、ヨーロッパやアジアにまで広がったために、やむなく中止され、続く、1944年のロンドン大会も中止されてしまいました。

このたびの第32回東京大会は、2020年の開催を準備していましたが、新型コロナウイルスの感染拡大で延期になり、本年7月の開催を間近にしていますが、新コロナの感染の拡大で、中止の声が大きくなってきています。医療体制が盤石であるなら、対処できますが、万全の医療提供が危ぶまれている昨今の状況で、開催はいかがなものかと思わざるを得ません。

スポーツ選手にとっては、オリンピックに参加できるのは、最高に栄誉ある機会ですが、コロナ騒動でそれを失うのは可哀想だと思いますが、オリンピック関係者だけではありません。同じ世代の学生も働いているみなさんだって、忍んでいる今、同じ状況下にあるのです。

さらにオリンピック大会を開催する国にとっては、その経済効果は、莫大なものがあるのだそうです。1964年の大会は、戦後20年近く経った時で、あらゆる面で日本が復興した様子を、世界に示すことができたのは、二十歳ほどの私にとっても、「誇り」を感じさせてもらったのを、昨日のように覚えています。

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「金銭愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい。(伝道者の書5章10節)」

今回は「金銭」や「誇り」にためにではなく、更なる世界的な拡大にならないために、「自重」するにが一番大切なことのように感じてなりません。インドは爆発的な拡大を見せ、ブラジルもアメリカも、まだまだ相当数の感染者があります。経済効果よりも大切なことがあります。

近代オリンピックの開催を進めたクーベルタンは、軍人にはならず、教育学を学んだ方でした。彼は、『オリンピックの理想は人間を作ること、つまり参加までの過程が大事であり、オリンピックに参加することは人と付き合うこと、すなわち世界平和の意味を含んでいる!』と考えていたそうです。さらに、『人生にとって大切なことは成功することではなく努力すること!』とも言っています。

是が非でも開催に漕ぎ着けいた努力ではなく、真に「世界平和」をもたらすには、踏みとどまって、現況をしっかり判断して、現実に、しっかり目を止めに思いを集中する「努力」が必要とされる時期なのではないかと思うのです。開催のための「努力」してきたことも、諦めるための「努力」も、同じ「努力」になります。

(共同通信社と息子の撮影の「オリンピック・スタジアム」の姿です)

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しもつけ

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嘗てこの地を、「下野(しもつけ)」、群馬あたりを「上野(こうずけ)」と呼びました。中国の律令制度に真似て、全国を区分けしてから、そう呼ばれる様になりました。きっと住んだことのない方には、「下野」を正しく呼ぶことができないことでしょう。「上野」は、忠臣蔵に出てきます、吉良上野介にちなんで、「こうずけ」と言う人がいても、東京の「上野駅」が有名ですから、正しくは呼べなさそうです。

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栃木に住み始めてから、家の植え込みや垣根に咲く、白い花が気になっていました。ここにアップしました花が、「シモツケ」と呼ばれる、その花です。一説によると、この花にちなんで、「下野」と地名が誕生したのだろうと仰る方います。

この地の名物に、「しもつかれ」があります。鮭の頭を独特なスリコギ「鬼おろし」で擦った大根や人参を、粕漬けなどで煮込んだ郷土料理です。調味料を使わないのだそうです。きっと栄養源だったのでしょう、『しもつかれを三軒(七軒ともいう)食べ歩くと、中気にならない!』と言われているそうです。

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名主さんやお代官様が、鮭の実を食べて、残った頭の部分を、あまり豊かではないみなさんが、工夫して食べ始めて、美味しくて増え広がったのだとか、と想像しています。と言うのは、ブラジルに「フェイジョン」と言う豆料理がありまして、その経緯に似てるのではないかと思うのです。

農場経営者の下で、農作業をしていたアフリカ系のみなさんは、その豆料理に、牛や豚の内臓肉を加えて食べたのだそうです。肉は豊かな人が食べ、安い肉を豆や玉ねぎやニンニクなどを、香辛料で煮込んだのだそうです。家内の母親や妹がブラジルにいたことがあって、それを作って食べさせてくれたことがあります。うまいんです。

それを、「フェジョアーダ」と呼ぶのですが、淡白な「しもつかれ」とは味合いは全く違いますが、贅を凝らした食べ物でない食事は、より健康的で、栄養価が高かったのでしょう。

(上から「しもつかれ」、「シモツケ」、「フェジョアーダ」です)

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神秘なるかな天然

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 明治35年(1905年)、武島羽衣の作詞、田中穂積に作曲の「美しき天然」は、佐世保女学校が開校し、その音楽教育のために、校長が依頼して作られたものです。

1 空にさえずる鳥の声
峯より落つる滝の音
大波小波とうとうと
響き絶やせぬ海の音

聞けや人々面白き
この天然の音楽を
調べ自在に弾きたもう
神の御手(おんて)の尊しや

2 春は桜のあや衣
秋はもみじの唐錦(からにしき)
夏は涼しき月の絹
冬は真白き雪の布

見よや人々美しき
この天然の織物を
手際見事に織りたもう
神のたくみの尊しや

3 うす墨ひける四方(よも)の山
くれない匂う横がすみ
海辺はるかにうち続く
青松白砂(せいしょうはくさ)の美しさ

見よや人々たぐいなき
この天然のうつし絵を
筆も及ばずかきたもう
神の力の尊しや

4 朝(あした)に起こる雲の殿
夕べにかかる虹の橋
晴れたる空を見渡せば
青天井に似たるかな

仰げ人々珍らしき
この天然の建築を
かく広大に建てたもう
神の御業(みわざ)の尊しや

 この様に、明治期の女子教育の教材に、創造の美や神秘を讃える歌を用いたことは、驚くことです。造陸運動や造山運動の結果、偶然に出来上がったものではなく、意図され、計画され、綿密に図られて大自然は出来上がっているのです。考えられないほどの知恵によってなる天然自然は、ただ畏怖するばかりです。

 同じく、明治期に、札幌農学校に学び、アメリカのアマースト大学に留学した内村鑑三は、後年、次の様に、「学ぶべきものは天然である」と言いました。

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 『人の編(あ)みし法律ではない、其(その)作りし制度ではない、社会の習慣ではない、教会の教条(ドグマ)ではない、有りの儘(まま)の天然である、山である、河である、樹である、草である、虫である、魚である、禽(とり)である、獣(けもの)である、是(こ)れ皆な直接に神より出(い)で来(きた)りしものである、天然は唯(ただ)天然ではない、神の意志である、其(その)意匠(いしょう、工夫を凝らすこと)である、其中に最も深い真理は含まれてある、天然を知らずして何事をも知ることはできない、天然は智識(ちしき)の「いろは」である、道徳の原理である、政治の基礎である、天然を学ぶは道楽ではない、義務である、天然教育の欠乏は教育上最大の欠乏である。』

 真っ赤に燃える様な月を、父の家の風呂桶の湯に浸かりながら、子どもの頃に眺めていたことがありました。母が、「主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。 (ヨエル23節)」と教えてくれていましたので、その晩に、この世が終わるのかと、恐れ慄いて眺めていたのです。

 あの晩は何も起きませんでしたが、天然自然は、黙していても、何かを語りかけていることを学んだのです。太陽が燃えて輝き、その光を受けて月が輝いていること、その光で万物の命が保たれていること。何万光年の彼方から、星の光が瞬いていること、地球が中空に浮かんでいること、しかも自転しながら、太陽の周りを公転していること。

 ふと自分がチッポケなことを知らされて、足が竦(すく)んでしまったことがありました。ベランダの鉢の土の中で、あんな硬い種を破って、ひ弱な芽が出てきて、ズンズンと大きくなっていくミニトマトや朝顔の朝ごとに伸びていく芽を見ていると、《命の神秘》を、強烈に思い知らされるのです。

 それよりも何よりも、母のた胎に宿った私が、か弱な赤子として生まれ、ヒイヒイ言いながら、母に乳房をあてがわれて母乳を吸って大きくなったのを思い返しています。自分一人で大きくなったのだと、偉ぶって錯覚して、母や父に悪態をつき、反抗し、兄弟喧嘩をし、外で人を殴る様な小僧になっていったのを思い返すと、恥ずかしくて仕方がありません。

 賢い創造者の御業は、この地上に、天空に溢れています。人は、その精緻な有り様を知りながらも、『神はいない!』と言ってるのにも驚かされます。『ああ麗しきかな、神秘なるかな天然は!」

 

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仕事以上のこと

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『人はなぜ働くのか?』と言う人生上の命題があります。その理由は、一つは「愛されること」、二つ目は「褒められること」、三つ目は「人の役にたつこと」、四つ目は「人から必要とされること」だと言われています。

 これらは、仕事を持つことで与えられることですが、人の「幸福感」を満足させてくれる様です。ですから幸せに生きるためには、一つは、仕事が必要不可欠であるとのことです。でも、誰かを愛すること、誰かに愛される必要を私たちは、仕事以外に持つ必要があります。

 上智大学で、「死の哲学」を、長く講じておられた、先年、お亡くなりになったアルフォンス・デーケンさんが、「人が持つ3つの特質」ということで、次に三点を取り上げておられました。          

① 考えること                         ② 選択すること                        ③ 愛すること

 どういう事を言おうとしておられるのかを考えてみました。私が人間であるのは、「考える」からなのだということでしょうか。いつも私は考えているのですが、空腹時には、食べ物のこと、ちょと寂しくなると、過去や子供たちや孫たちのことに思いを馳せます。事件が起きますと、なぜこういったことが起きたのだろうか、結果はどんな影響になるのだろうか、関係者の気持ちなどを考えるのです。

 いろんな情報が錯綜していますから、正しい目と思いで判断をして、正しく判断する必要があります。やはり人には、「愛」が不可欠なのでしょう。本来人間は利己的ですが、その利己心を正しく収めて、思いを他者に向ける必要があります。

 有名な話に、「隣人愛」を題材にしたものがあります。

 『しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカの福音書102937節)』

 結論は、人の必要に思いを向け、物を与え、時間を費やし、犠牲を払ってです。最後の人は、仕事の途上で足を止めたのです。仕事を犠牲にしてまでも、「あなたも行っておなじようにしなさい。」と言う勧めです。現代社会は、そうしてくれる人が必要なのではないでしょうか。

(もう咲き出してるでしょうか「ニッコウキスゲ」です)

 

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再会

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駅に行く道の路側帯の街路樹に、「栃の木」が植えられています。その木に咲く花に、引っ越して来て気になっていたのですが、一昨日、撮ってみました。以前住んでいた街は、ハナミズキの街路樹で、赤と白の花が咲いて綺麗でした。街も山も里も、どこもかしこも花花花で、素敵な初夏を楽しんでいます。

この「栃の木」は、栃木県の県木で、家具などに使う高級材になるのですが、いつか栃の木で作られた食卓で、水団(すいとん)を食べてみたいものです。そんな食事が似合いそうな木や花なのです。

昨日は、家内の叔母が、先月、104歳で亡くなりまして、家内に代わって、熊谷のお宅に、ご挨拶にお邪魔しました。叔母が10年ほど過ごした部屋に、百歳の頃に写した写真がありました。江戸っ子の気風の女性で、物言いがスパッとしていたでしょうか、家内は可愛がられたそうです。

日本人の習わしで焼香を、家内の従兄弟に求められましたが、丁寧にお断りをして分かっていただきました。ずっと年老いた母のお世話を、長男として果たしてこられたのです。奥様の手を煩わせないで、全てのお世話をした孝行息子でした。『よくなさいましたね!』と、労をねぎらい、お宅を辞しました。

四人の子の母親として生きて、叔母は生を全うしたのです。どなたもあっという間の一生を過ごすわけです。基督者の家内の姉が訪ねた折に、《永遠のいのち》に至る信仰を、この叔母が告白したと聞いています。これが人の一生でいちばん幸いなことであります。再会の希望があります。

 

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夏は来ぬ

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 明治33年(1900年)に、作詞が佐佐木信綱、作曲が小山作之助で、明治期の唱歌として、私たちが親しんできた「夏は来ぬ」があります。

卯の花の 匂う垣根に
時鳥(ホトトギス) 早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ

さみだれの そそぐ山田に
早乙女が 裳裾(もすそ)ぬらして
玉苗(たまなえ)植うる 夏は来ぬ

橘(タチバナ)の 薫る軒端(のきば)の
窓近く 蛍飛びかい
おこたり諌(いさ)むる 夏は来ぬ

楝(おうち)ちる 川べの宿の
門(かど)遠く 水鶏(クイナ)声して
夕月すずしき 夏は来ぬ

五月(さつき)やみ 蛍飛びかい
水鶏(クイナ)鳴き 卯の花咲きて
早苗(さなえ)植えわたす 夏は来ぬ

この歌は、古きよき時代の季節感があふれていて、懐かしさが感じられます。ちょっと難しい言葉遣いがありますが、今の夏と少しも変わらない故郷に風情が蘇って来て、素晴らしいなあと思うのです。

 私の散歩道は、市内の街中の目抜き通りを一本脇に入った「日光例幣使街道」を、日光に向かって歩き始めています。その旧街道を離れて、「総合運動公園」に行く片道四千五百歩ほどのコースなのです。蔵の町を通り、代官屋敷跡、味噌問屋、肥料店などの前を通りますが、ほとんどは閉店してしまって、門が前だけですが。

 京の都から、年一度、旧暦の四月十五日(西洋暦だと5月26日だそうです)に、東照宮詣でをする決まりがあったそうです。そんな勅使の気持ちを味あおうと思うのですが、往時の佇まいは所々に見受けられる建物跡なのです。その気分に浸れないまま、道を逸れてしまうのです。

 その道は、けっこう車が通りますので、勅使が通過した当時にはなかった「排気ガス」を吸わなければならないのです。防毒マスクをつける代わりに、最近は、田舎道を見つけて、そこを歩いているのです。「部賀舟(ぶがぶね)」が登り下りをした巴波川の土手の上を五千歩行って、折り返して帰ってくるのにコース変更したわけです。

 藪の中でカラスの子が騒いでいて、産卵期でしょうか、鯉がバシャバシャと水音としぶきをあげていっしょいます。さらに鴨がうるさく声を上げているのですが、かれらも精一杯生きているわけです。この時期、茂みの青葉の木の中から、『ホーホケキョ、ケキョケキョ!』と鳴く声が聞こえるのです。信綱が言ったホトトギスの声です。

 この歌詞にある様な「忍び音」どころではなく、令和のホトトギスは、爽やかに、懸命に、まるで賛美しているように鳴いています。それに雲雀(ひばり)が、空を舞いながら鳴いているのです。夏よりも、まだ春を感じている感覚なのです。

 この写真は、巴波の流れの土手に咲いていた野花ですが、手折ってコップに家内が挿してくれました。矢車草が三色あったりで賑やかな春の色彩でしょうか。空には、獨協医科大学病院の《ドクヘリ》のプロペラ音がしています。

 農業用水の水路でもある巴波川の水が、田圃に引かれ、ぼちぼち田植えが始まったり、準備中です。早乙女の出る機会が、田植え機械の導入で見られない時代ですが、水路を整備していたお爺さんに、『おはようございます!』と言ったら、頷き返してくれました。やはり、「夏は来ぬ」です。

 

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ルピナス

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「ノボリフジ(昇藤)」とも言われる花、「ルピナス」が、市内の惣社町にあると、友人が知らせてくださって、通院途上の道の脇の花園に咲いているのを、昨日は下車して見て来ました。

遠目で見た方が綺麗でした。まさに、垂れ下がって咲くフジの花が、逆方向に下から上に向かって咲いているように見えるのです。ヨーロッパの南部原産の豆科の花なのだそうです。実に綺麗でした。

 

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