為すべきは労働

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「 人はその口の実によって良いものに満ち足りる。人の手の働きは、その人に報いを与える。 (箴言12章14節)」

 昨夜、働いている時の夢を見ました。子育て中のこと、息子が、『お父さん、ボク高校に行けるの?』と聞いてきたことがあったのです。彼なりに家の財政上の様子を考えて、ちょっと不安になったのでしょう。彼は、『新聞配達をさせて欲しい!』と許可願いをして、親の承諾を得て始めたのです。中学校の近くにあった、高校受験の予備校に、そのバイト代の収入で通ったのです。人気の予備校で、その隣りにあった公園のフェンスの傍には、中学生の乗ってきた自電車が溢れかえっていました。

 そんな思いを知って、私は、スーパーマーケットの床掃除を始めたのです。学校に行っていた頃に、兄の務めていた外資系のホテルで、客室関係の仕事をした関係で、床を洗ったり、磨いたりした経験があって、それで月2回ほど、夜間の仕事を始めたのです。チェーン店の他の店の掃除も頼まれましたが、一店舗だけ、20年ほど続けたでしょうか、その収入で、子どもたちに教育を受けさせることができたのです。

 その始めたきっかけが良かったし、日本の景気の良かった時代もあって、高収入だったのです。夜、11過ぎに、車にポリシャーやスクリッパー、ワックス、モップなどを乗せて店で、4、5人のスタッフで明け方まで、ワックス仕上げをする仕事でした。本業以外からの副収入は、息子の願いを叶えることができ、大学にも行くことができ、援助はしませんで、大学院まで行くことが、彼にはできたのです。

 その息子は、今、私がしていた同じ仕事をし、同じ様にサイドワークもしながら、子育てに専心しています。それは実に充実していた日々でした。アルバイトを雇って、資材を購入し、美しくピカピカの床に仕上げる仕事が好きでした。そんなで夜明けを迎え、仕事を終えると、いっぺんに心地よい疲労が出てきたのです。内村鑑三が、「為(な)すべきことは労働である」との一文を残しています。

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 『口を以(もっ)てする伝道ではない、筆を以てする著述ではない、策略を以てする政治ではない、手と足とを以てする労働である、労働に由(よ)らずして智識以上の智識なる常識は得られない、労働は労働としてのみ尊いのではない、信仰獲得井(ならび)に維持の途(みち)として、常識養成の方法として、愛心喚起の手段として又最も尊いのである、キリストに於(お)ける信仰は文に頼(たより)て維持することは出来ない、語るを知て働くを知らざる者は大抵は遠からずしてキリストを棄(すて)る者である、福音は神学ではない労働である、聖書の最も尊き注解は神学校より来る者にあらずして、田圃(たんぼ)より、又は工場より、又は台所より来る者である、労働なくして身は飢え、智識は衰(おとろ)へ、霊魂は腐る、労働を賤(いやし)む者は生命を棄る者である、労働是れ生命と云(い)ふも決して過言ではない。』

 労働と言うのは、『田圃(たんぼ)より、又は工場より、又は台所より来る者である!』と言っています。もちろん精神労働もありますが、農や工や商、さらには家事にも関わる仕事を「労働」と呼んでいます。自らに、さらには、家族に、社会に対して「生命」をもたらす「生業(なりわい)」のことです。

 今、黄金色に成長した大麦の刈り入れを終えた耕地に、水が張られ、農夫によって田植えが行われています。北関東平野で、ずっと行われ続けてきた業です。人に「生命」を与える仕事、労働です。日本の「農」が衰退し続けている今、それでも絶え間ない労働がここでは行われています。お米も野菜も果物も美味しいのです。より安全なものの生産に苦心している方たちがおいでです。

 

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