カスがいい

 

 

『♯十五、十六、十七と、私の人生暗かった♭』と、十代の女性演歌歌手の藤圭子が、可愛らしい顔に似合わず、歌っていたのが思い出されます。この藤圭子と同じ故郷の大雪山麓の中学校の一級下だった方が、こんなことを、ご自分の著書の中で記しておいででした。

『藤圭子は、学業成機が優秀で評判でした。』とです。向学心もあったに違いありません。でも、ご両親が浪曲師で、街から村へと渡り行く「旅芸人」で、高校進学を断念せざるを得ませんでした。それで、ご両親を助けておられたそうです。お母様の目が不自由で、彼女が長女だったこともあって、大変な苦労をされたのだそうです。

東北の街で生まれ、北海道内を渡り歩いて、自分でも、前座で歌を歌ったり、浪曲を演じたりしていた様です。東京に出て来て、錦糸町や小岩などの盛り場を、お母様と一緒に流して歩いて、「三曲200円」と稼いで、家族を支えていたそうです。まさに、歌の歌詞の様な生き方を、幼い日からして来た様です。

そういえば、私の十代前期も暗かったのです。恵まれた環境の中にいて、何不自由なく生きられたのに、心の中に闇が広がっていたのです。それって、子どもから大人になって行く過渡期で、〈思春期の闇〉と言えるでしょうか。何かトンネルの中にいる様な、不快感、圧迫感があって、上手く生きられなかったのす。

バスケットをしたり、映画を観たりしていも、勉強もままならなかったのです。それでも、学外からの〈実力テスト〉になると、なぜか、学年で十番以内に入ったりの〈チグハグ〉な時期でした。そんな自分に担任は気付いていた様です。中三の最後の卒業の通信簿に、『よく立ち直りました!』と行動評価を書いてくれ、ほんとうに立ち直ったのです。

 


盗みを働いたり、停車中の電車のドアーを開けてしまったり、喧嘩をしたり、タバコを吸ったり、お酒を飲んだりの〈危なっかしい年齢〉を、ヨロヨロと通り過ごすことができたのです。徒党を組んでではなく、何時も単独犯でした。通報された学校も、呼び出された親も知っていたのに、なぜか処罰されなかったのです。私立の中学でしたから、停学とか退学もあったのですが、『もっと悪くなるといけない!』と考えたのでしょうか。

重大なことがあったのに、何もなかったかの様に通り越した私は、大学にも進学でき、何と学校の教師にもなれたのです。「子は鎹(かすがい)」という言葉があります。きっと私の母は、『子はカス(クズや不用品のワルのことです)がいい!』とでも思ったのでしょうか、嘆く代わりに、ただ天に向かって手を挙げて願うばかりだったのでしょう。

でも、私は心を天に向けて、『ごめんなさい!』と言って、《赦されたこと》を確信したのです。それ以降、燦々と降り注ぐ陽のシャワーの中で、嬉々として生きて来れるようにされ、感謝しているのです。こんな恥な過去を書ける年齢になったのでしょうか。『何と詫びようか、お袋に?』と思ったまま、その機会も得ずに、お袋は天に帰って行ってしまいました。でも、『今の俺の姿を見たら、安心してくれることだろう!』、と勝手に思っている年の暮れです。

(以前の中央線ホームから西武国分寺線ほーむ、「子は鎹」の落語の漫画です)

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十二分

 

 

「知足(ちそく)」と言う漢語があります。辞書に、『[老子「自勝者強、知レ足者富」から〕]足るを知ること。身の程をわきまえてむやみに不満をもたないこと。 「 -守分」』とあります。

人の欲望って、際限なく強く、大きくなるものなのでしょうか。自分の来し方を顧みますと、「縁」のないものが幾つかありました。[褒賞(ほうしょう)]と[栄誉]と[お金]でしょうか。平々凡々の凡人で生きて来た様です。

ユダヤの古書に、『蛭(ひる)にはふたりの娘がいて、「くれろ、くれろ。」と言う。飽くことを知らないものが、三つある。いや、四つあって、「もう十分だ。」と言わない。陰府(よみ)と、不妊の胎、水に飽くことを知らない地と、「もう十分だ。」と言わない火。』とあります。陰府と不妊の胎、地、火は、深くて大きくて際限なく広がっていくからでしょうか。

つくづく思うのですが、父が大富豪で、巨万の富を残してくれて、自分の「相続分」が溢れる程にあったら、きっと良からぬことに使って、身を滅していただろうと思うのです。私の父は、豊かだった時期があったのですが、晩年は、家と、書庫にわずかな書籍と、一竿(ひとさお/家具などの量子で言う様です)の洋服ダンスに中に収まる程のわずかな物で満足して生きていました。

それに引き換えると、私などセーター7着、パンツが10枚、靴だって5足ほどあります。溢れる程ではありませんが、十二分に備えられている生活ができています。生まれてから、「食べられない日」は、病気と断食した日以外にはありませんでしたし、財布の中には、いつも千円札が入っていました。

蛭の様に、際限なく欲しがれば、きりがないのですが、ほどほどに生きて来れた、この凡々たる生活で満足しています。日本に帰れば、僅かばかりに年金が、口座にあるでしょうか。盗みもしなかったし、人も騙さなかったし、人に乞うこともなく生きて来れたのですから、感謝でいっぱいです。まさに《知足》の人生で、《十二分》であります。

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冬の花

 

 

冬の今頃、広島県呉市の黒瀬川流域に咲く、カタバミの花です[HP/里山を歩こう]。蝶々の食草なのだそうです。昨晩配信してくださいました。この一ヶ月ほど、私たちの2階の家は、南側の9階の隣の建物の影になって、午後3時にならないと、陽が射してこなくなっていました。それも僅か1時間ほどです。

昨日が「冬至」でしたから、今日から、太陽が少しづつ高くなって行くので、陽が戻ってくることでしょう。今日は「日曜日」です。好い一日、一週でありますように。

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冬至

 

 

何と、わが家の寒暖計は、 19℃を表示しています。今日は、12月22日、「冬至」なのにです。例年ですと、家の中に縮こまっているのに、こんな暖かくて好いのでしょうか。窓は開放、子どもたちの遊ぶ声や近くの建設現場から、槌音が聞こえて来ます。

私たちが子育てをして、長く住んだ街にいた頃、毎年、この一週間くらい前に、バケツ一杯の「柚子(ゆず)」を届けてくださる方がいました。山の中で柚子を栽培している農家の方でした。下の子どもさんを、火傷で亡くされて、悲しみで意気消沈されていたお母さんを、家内とお訪ねして、慰めたり、励まして差し上げたことがありました、

柑橘類の匂い、とくに柚子の匂いは独特で、料理にも使ったりしますが、きっと 「柚子湯」にする様にと、届けて下さったのです。この時期になると、思い出される出会いと匂いと冬のお風呂です。この「冬至」には、この他に「南瓜」も煮て食べる習慣がありました。ここ中国では、米の粉で団子を作り、それをゆでたものに、砂糖を加えた「きな粉」をまぶした「団子」を食べるのです。昨晩家内の日本語クラスの女の子のお母さんが、わが家の台所で作ってくださったのです。

柚子湯も南瓜もありませんし、その上、温かなので、冬至気分はしないのが残念です。でも来週からは、寒波襲来で、寒さが戻ってくる様です。

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割烹着

 

 

いわさきちひろの絵です。私の母の生まれた翌年に生まれておいでです。この方は、子どもの頃、電車に乗って、窓が曇ってると、そこに絵を描き、描き終えると他の窓に移って行って描き続け、乗客が席を譲って描かせるほどに、この方は、絵を描くことが好きだったそうです。こういうのを、「栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し」と言うのでしょうか。

 

 

『あの子が欲しい、この子が欲しい!」と節をつけて言いながら、こんな風に、私たちの時代は、集団で遊んでいたのです。子どもたちの向こうに、お母さんが描かれています。《昭和のお母さん》が着ているのは、「割烹着(かっぽうぎ)」で、私の母もよく着ていました。スーパーのプラスチックの袋でなく、「買い物籠」を提げているのがいいですね。また、妹をおんぶしているなんて、もうこう言った姿を見ることがなくなってしまい、とても懐かしいものです。

今日(アメリカ時間)と25日は、孫娘たちの誕生日です。こんな風に遊んだりすることは、二人ともないのでしょう。ただ、健康であり、人に愛され、人を愛する様になって欲しいと願う〈大陸のジジとババ〉なのです。

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特筆

 

MAIN STREET OF GION-MACHI. KIOTO

 

学校で習わなかった漢字が、この頃、よく使われています。「温度」とか「程度」の「度」のつく漢字です。国民性の尺度とも言える「民度」、どれだけ仕合せかを計る「幸福度」など、学校では教えてくれませんでした。ところが、『日本人は民度が高い!』と、自らそう言い、最近では周りの国々のメディアからも、そう言ってもらえます。

幕末から明治にかけて、日本にやって来られた外国人が、ヨーロッパからは、東の果てにある辺境の国に住む人々の生活ぶりや振る舞いを見て、驚いた印象を日記や書物に書き残しています。明治初期にやって来て、「大森貝塚」を発見した、アメリカ人の動物学者エドワード・モースが、次の様な印象を、日記「日本その日その日」に記しています。今の東京大学の前身の学校で教鞭をとった方です。

モースが、瀬戸内海の地方に研究の旅をした時のことです。芸州・広島の旅館に落ち着いて、財布と懐中時計を預けて、しばらくの間、そこから出かけることにしたのです。その時、旅館の女中さんが『お預かりします』と言って、時計と財布をお盆に載せて、モースの泊まった部屋の畳の上に置いたのです。日本式の宿の部屋には、鍵などありませんから、誰でも、いつでも室に入れるわけです。

諸外国を旅をして来たモースは、多くのアジア人が不正直で、人の目を盗んでは悪事を働くのを目にしてきていたのです。きっと被害にあった経験もあったのでしょう。そんなモースの心配をよそに、主人は、『ここに置いておけば安全です!』と言うだけでした。その言葉に不承不承で、不安なままモースは、財布などを預けたまま旅に出たのです。

一週間後、研究旅行を終えて、旅館に戻ったモースは、部屋のふすまを開けて、驚いてしまったのです。その時のことを、次の様に記しています。『帰ってみると、時計はいうにおよばず、小銭の1セントに至るまで、私がそれらを残していった時と全く同様に、ふたのない盆の上にのっていた!』とです

さらにモースは、次の様に記しています。『当時の欧米のホテルでは、盗難防止のため、水飲み場のひしゃくには鎖が付き、寒暖計は壁にネジで留められているのが常だった!』とです。モースは日記に、『外国人は日本に数ヶ月いた上で、徐々に次のようなことに気がつき始める。即ち彼は日本人にすべてを教える気でいたのであるが、驚くことには、また残念ながら、自分の国で人道の名に於て道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人は生れながらに持っているらしいことである。衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり……これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である。』と記しています。

実は、多くの「お雇い外国人」や旅行をした欧米人が、同じ様な印象を書き残しているのです。江戸末期、明治初期の日本人を、外国人が見て、貧しい中にも、生活に、「節度」があって、和(にこや)かに過ごしていたのを見たのです。「幸福度」も高かった様です。識字率も高くて、庶民が、〈読み書き算盤(そろばん)〉ができ、礼儀や挨拶も、他の国では見られないほどに日常に見られたそうです。日本人であることを、もっと特筆し、誇ってよいのかも知れませんね。

(明治期の京都祇園を撮影したものです)

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一皿

 

 

2014年 シビエ料理
2015年 スーパーフード
2016年 バクチー料理
2017年 鶏むね肉料理
2018年 鯖

これは、「今年の一皿」に選ばれた料理だそうです。これについて、"ウイキペディア"によると、次の様にありました。

『優れた日本の食文化を人々の共通の遺産として記録に残し、保護・継承するためにその年の世相を反映し象徴する食を表彰する。選考は飲食店情報サイト「ぐるなび」内のビッグデータから選ばれた候補項目からぐるなび会員によるアンケートをもとに絞り込み、メディア関係者による投票でノミネート項目を選定し実行委員会にて「その年に流行または話題になったこと」「その年の社会の動きと関係が深く世相を反映していること」「食文化の記録として後世に受け継ぐ価値があること」の三条件をもとに最終審査を行い大賞「今年の一皿」を決定し、その他各賞数件が発表される。』

若かりしころ、新宿だったでしょうか、職場の上司に連れられて行った店で、「鹿の肉」と、「熊の肉」をご馳走になったことがあります。これが、「シビエ」なのでしょうか。「スーパーフード(?)」も「バクチー料理(タイ料理でしょうか)」も食べたことはありません。去年は「鶏むね肉」、今年は「鯖」で、これは食べたことがあります。

ただし、2018年の一皿の「鯖」は、子どもの頃に、「しめ鯖」を食べて以来、食べず仕舞いでおります。ところが家内は大好物で、「鯖の味噌煮」は、夢にまで出てくるそうです。こちらの日本料理店に、「鯖焼き」があって、家内は、二、三度食べたことがありましたが、折角の鯖なのに、『固くて美味しくなかった!』のだそうです。

鯖は、水から上がると、すぐに鮮度が落ちてしまい、時間勝負で食べるのだそうです。京都と北陸の間に、その鯖を輸送した「鯖街道」があったそうです。塩をした真鯖を、人が担いで、京の都を目指して走って運んだと聞いています。日本海でとれる鯖を、好んだ人が、京都には大勢いたのでしょうか。

きっと若狭の郷土料理を、京都でも食べたくて、そういった運搬方法で運ばれて、京都でも盛んに、「鯖寿司」が作られて食された様です。1200年ほどの歴史がある様です。発酵食品の一つで、健康食品なのでしょう。でも、私は食べようと思いません。きっと「食べず嫌い」なのかも知れません。美味しいのでしょうね。

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期す

 

 

先ほど来(18日の午後のこと)、机に向かいながら、何となく頭を掻いていましたら、ふと思いにやって来たのが、「白頭掻けばさらに短し」の杜甫の詩の一節でした。

『春望』

國破山河在
城春草木深
感時花濺涙
恨別鳥驚心
烽火連三月
家書抵萬金
白頭掻更短
渾欲不勝簪

これを、中学生に時に、次の様に読んだのです。

国破れて 山河在り (くにやぶれて さんがあり)
城春にして 草木深し (しろはるにして そうもくふかし)
時に感じては 花にも涙を濺ぎ (ときにかんじては はなにもなみだをそそぎ)
別れを恨んでは 鳥にも心を驚かす (わかれをうらんでは とりにもこころをおどろかす)
烽火 三月に連なり (ほうか さんげつにつらなり)
家書 万金に抵る (かしょ ばんきんにあたる)
白頭掻けば 更に短く (はくとうかけば さらにみじかく)
渾て簪に 勝えざらんと欲す (すべてしんに たえざらんとほっす)

『白髪頭を掻いてみると、頭髪が短くて(薄くて)、櫛(くし)やかんざしを挿すほどの束ねた髪のない自分なのだ!』、まさに私の現状です。もう、十数年になりますが、右肩の腱板を断裂し、その縫合手術のために、私たちの住んでいた街の市立病院に入院しました。結構大変な手術でした、当時同じ様な患者さんが、5人ほど入院していて、手術を担当して下さった主治医は、その道の専門医でした。同じ病室に、私たちの親しい友人のお兄さんがいたのです。

それは偶然の同室で、隣り街で、畳職人をされていた方ですが、全身を大怪我をされて、ほとんど体を動かせませんでした。それで、食事の後片付けなど、細かなことを助けて差し上げていたのです。お聞きすると、同じ年の生まれで、同じ山奥の沢を二つほど西に行った所の出身でした。ある時、この方が長髪を、丸刈りにされたので、看護婦さんにお願いして、バリカンで、私も刈ってもらったのです。

それ以来、手入れが簡単なこともあって、ずっと丸刈りにしてきています。杜甫も、髪の毛が薄くなったのでしょうか、ふと白髪頭を掻いてみたら、男用の「簪(かんざし/中国では以前、男性も用いた様です)」ができないほどに薄くなっているのに気づいたのです。長年の流浪の身の厳しさが伝わってくる様です。

私の毛の薄いのは、父譲りで、そんな杜甫ほどの苦労の辛い体験は、ほとんどありません。男は、「毛」でなく「気」で生きているのだと思っていますので、全く「毛」にしていません。いえ「気」にしていません。こう白頭を掻きながら、今年も暮れていく様です。昨日は、誕生日でした。ずいぶん長く生きてきた、いえ生かされてきたものです。

そうですね、『来年も!』と心を期しているところです。こちらに留まって、助けられたり、助けたり、もう少しの時を、こちらで過ごそうと決めたところです。年明け早々、一時帰国をし、ビザを取得できたら、心を整えて戻って来ようと思っています。家内ともども健康チェックもして、太鼓判が押されたら、そうできることでしょう。

(杜甫を描いたものです。でも、これには髪の毛が見えますが頂きはどうでしょう)

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優しさ


 


 

中央画壇から離れ、50歳の初めに、南海の奄美大島に居を構えて、創作活動に明け暮れた日本画家、田中一村の絵に、生き方に魅了された、今年の後半期でした。写真だけで、実際に見ていないのに、そうなるのは、絵の中に、画家の思想や人生観が無言のうちに表れているからでしょうか。

江戸期の浮世絵師たちの多くは、商業画家でした。版元に依頼されて、商業ベースに載せて、売れる絵を描いていたのです。ところが、この一村は、大島紬の染色工の仕事をしながら、お金ができると、画材を買っては絵を描き継いで行くという、奄美での創作の日々は、中央画壇の評価を得たいがためではなく、お金のためでもありませんでした。

情熱を注いで、描きたいものを描くという生き方が、魅力的ではないでしょうか。阿(おもね)ることもなく、衒(てら)うこともない生き方が好いのです。浮世絵で日本画家の鏑木清方の個展が、横浜であって、その警備のアルバイトを、私はしたことがありました。美人画の大家で、明治から昭和にかけと大御所でした。素晴らしい絵でした。

一村の絵には、人物画、美人画がほとんど見られません。ただひたすら鳥や花や景色を描き続けたのです。死後になって脚光を浴び、評価を得ますが、生前は、顧みられることがありませんでした。ライになって故郷を追われ、奄美の療養所に入所していた少女の母の写真から、肖像画を描いてを上げたという話を聞きました。この少女だけではなく、多くの患者さんの絵も描いたそうです。

この方は、社会的な弱者に対する「優しさ」を持っておられたのです。そんな心の思いになりたいものです。

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お似合い

 

 

本庶佑さん夫妻、”ベストカップル“ですね。夫人は、ご主人に手を握られて、とても幸せそうです。ノーベル賞授賞式に出席されたお二人です。ご夫人の弁によりますと、『若い頃の〈亭主関白〉が、優しい主人に帰られてきました!』だそうです。

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