もう少し日が経つと、お米屋さんに注文してあった「餅」が、毎年の様に、父の家に配達されてきました。その餅が、適当な硬さになると、父は、竹製の裁縫用の物差しを当てて、大きさを定め、包丁で平餅を等分に切って餅箱に入れて、正月の準備をしていました。それは父の性格が現れるのでしょうか、実に几帳面(きちょうめん)な作業でした。
元旦の朝、四人の息子に、『允、憲、準、徹、いくつ喰う?』と聞いて、母と自分の数を合わせて、七輪に持ち焼き用の網を乗せて、丁寧に返しながら焼いてくれるのです。焼けると、母が小松菜と鶏肉を具に、醤油ベースの出汁の大きな鍋の中に入れて、さっと煮て、碗に盛って、母が暮れの29日頃から作り置きした御節料理と一緒に、『いただきまーす!』と言うやいなや食べ始めるのです。
美味しかったし、楽しかった。関東風のさっぱりした雑煮は、まさに正月の味覚でした。昔ながらの御節料理を、父が作り手の母を褒めていました。あの時は、取り合いも、摑み合いの喧嘩もなく、ずいぶん和やかでした。あの時が「団欒(だんらん)」だったのでしょう。いつもは、まるで〈戦場〉の様な家でしたが、いつの間にか、みんなが和やかになっていきました。兄弟喧嘩は、父の家では"リクレーション"だったのです。
この育った家は、常時、窓を解き放っていましたから、みんな近所に筒抜で、ずいぶん荒っぽい家族集団だったのです。家内が、私と結婚をする旨、知らせた時、家内の上司が、『あの家の息子と結婚して大丈夫?』と心配したそうです。その上司は、兄たちと弟と、私の子供時代を知っていて、そう言ったそうです。何しろ有名だったからです。
それが、街中の心配をよそに、みんな落ち着いて、会社員や教師や倶楽部長になったりしてしまったので、これまた『変われば、変わるものだ!』と、街中を驚かせてしまったのでしょう。もう今や、みんな七十代の高齢の世代に入って、上の兄など、そろそろ「ひ孫」が生まれるのではないでしょうか。
この暮れ、兄たちと弟は、一緒に食事をすると言っています。私は参加できないのですが、みんなが羨ましがるほど、仲が良くなっているのです。これって、あの頃の"リクレーション"の《実》なのでしょうか。
(これにちょっと似ていたのが父の家での「お雑煮」でした)
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