開花

 

 

12月8日、朝8時半に、北側のベランダで一輪の花をつけた「ハナキリン(花麒麟)」です。この花は、アフリカ大陸の東側のインド洋にある「マダガスカル」が原産の外来種で、観葉植物として愛されています。花と葉をつける枝には、「茨(いばら/荊、棘)があります。それで、「茨の冠」(英語:Crown-of-thorns)と呼ばれているそうです。処刑される罪人の頭に被せられたりしてきています。

今朝方、10℃ほどに下がった気温の中で咲いています。一年中咲いてくれます。本来の寒さが戻ってきたようです。私が生まれた山奥では、今朝の様に、ここで見上げられる鉛色の空からですと、きっと雪が降ったものです。でも、この街では、降雪も結氷もないのです。ニュースによると、北海道では雪が降ったそうですね。

6日の夜、私たち家族に、実によくしてくださった方が、82歳で召されたと知らせがありました。長男が生まれた時に、奥さまとご一緒に、何くれとなく助けて下さった方です。11日に、東京で、「告別式」がありますが、息子に、その前夜に、ご遺族を訪ね、ご挨拶の代理の出席を願ったところです。ちょうど、アメリカ人起業家と新しい地に出かけようとしていた頃でした。

この方の上のお嬢さんが小学生だった頃、家庭教師をさせて下さったのです。あの時生まれた子が、今年46歳になっていますから、時の過ぎ行く様を思い返して、思い出されることが多々あります。奥様、ご遺族のみなさまの上に、心からの慰めを願ったところです。悲しみを慰めてくれるかの様な開花です。

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山と水と桜

 



これらに絵は、洋画家、版画家の吉田博の作品です。一見して圧倒される迫りを感じさせられてしまいます。小学校の時に、年賀はがきのための木版を、彫刻刀で彫った経験が、私にもあります。誤って手をついてしまって、その傷跡を見ると、子どもの頃が鮮明に蘇ってきます。こんなに精緻に描く、その集中力に驚かされてしまいます。渓流の水も、上空の雲も、まさに湧き上がるかの様です。

吉田博の略歴は、次の様です。

『博は、明治9年(1876)、久留米藩士・上田束の次男として、久留米市に生まれました。明治20年(1887)に福岡に移り、その後中学修猷館に入学すると、図画教師の吉田嘉三郎にその画才を認められ、明治24年(1891)、吉田家の養子になりました。明治26年(1893)、17歳で京都の田村宗立の門下生となりましたが、翌年上京して小山正太郎の主催する画塾・不同舎に入門し、本格的な画業をスタートさせます。明治32年(1899)、23歳の時、描き溜めた水彩画を携え、1か月分の生活費のみを持って、後輩・中川八郎とともに決死の渡米を行い、デトロイト美術館等での展示即売会の大成功によって資金を得て、ヨーロッパを巡って2年後に帰国しています。さらに2年半後には、のちに夫人となる義妹ふじをと共に再び渡米し、3年以上をアメリカ、ヨーロッパで過ごして帰国しています。洋行が珍しかった時代の外遊によって古今の西洋美術に触れると共に写生によって大いに画技を磨き、帰国後、油彩画の分野で文展や帝展の審査員を務めるなど近代西洋画壇の中心人物として活躍しました。』

 

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その後、版画を学んで、多くの作品を残しています。山と水と桜を愛して描いた人です。今も多くの所で、古典が開かれていますので、いつか出掛けてみたいと思っています。

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