東京の都下に「立川」と言う街があります。肺炎で死線を彷徨(さまよ)った私が、風邪をひくと、母は、学校を休ませて、その立川にある国立病院に連れて行くのが常でした。『今度、肺炎になったら、死んでしまうので、細心の注意をする様に!』と、入院時に治療にあったってくれた医師に言われた母は、神経質になって、私を守ろうとしたのです。
駅から電車に乗って、立川で下車し、国立病院に、何度連れて行かれたか知れません。小学校に低学年の頃のことです。病院帰りに、決まって母が買ってくれたのが、アメリカ製のチューウインガム、箱入りの干しぶどう、チョコレートのどれかでした。兄たちや弟に内緒で、それを買っては、甘やかせてくれたのです。当時の医療費だって半端ではなかったはずです。母は、私を、『死なせない!』と覚悟してくれたので、私は生きることができたのです。
立川の米軍基地の脇に、この国立病院があって、微熱のある私には、この通院はきつかったのですが、チョコレートにつられて、注射を打たれ、水薬や錠剤薬を飲まされました。家で寝てると、昼前に、リヤカーの魚売りの「クリヤマさん」がやって来て、わが家の前に、リヤカーを止めて、魚を売っていました。母は、きまって《マグロの刺身》を買って、食べさせてくれたのです。高価な食材でした。
やがて健康体に、私が回復したのは、小学四年生になってからでした。すっかり甘やかされた私は、父や母、兄弟たちに迷惑をかけ、いわゆる〈日本版小皇帝xiaohuangdi〉が出来上がってしまったのです。過分な愛を受けた子と言うのは、満ち足りてるのですが、我儘は、箸にも棒にもかからなかったのでしょう。ついに父は、私をこっぴどく叱ってくれました。それから、私は変わったのです。『このままではいけない!』と、父が決断したからです。
そんなで私にとって、立川は特別な街なのです。小さい頃から、大きくなってからも、米軍基地(空軍)の正門の中を覗いたり、その門前の米軍人はその家族相手の店を覗いたりしながら育ったのかも知れません。ですからアメリカ人、外人は、私には珍しくなかったのです。
その米軍基地が、日本に返還されて、何時の間にか、「国立昭和記念公園」に変えられてしまったのです。病から癒えた私は、通院のためではなく、映画やショッピングのための街に、立川は変わってしまったのです。その「空軍基地」が、子どもの遊ぶ公園になってしまうとは、何と平和な時代になったことでしょうか。
基地の周りは別として、立川は、一歩外れると、何もない殺風景な街でしたが、私にとっては、それが〈原風景〉の一つでもあります。〈シネマ通り〉があったり、競輪場もあったのですが、もう随分行 ってないのです。〈緑川〉と言うドブ川がありましたが、きっと暗渠(あんきょ)なってしまっているのでしょうか。
([HP/里山を歩こう]に投稿された多摩KAさんの撮影された昭和公園の中です)
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