東映の「時代劇映画」のフアンだった、小学生の私は、ほとんど毎週末、立川の封切館に出かけていました。観た後、次週の予告編を観た私は、それに誘われて、また出掛けて行くのでした。父が子どもの頃から知っていた月形龍之介(本名まで知っていたので近旧制中学の同窓の先輩でした)、その他に片岡千恵蔵、近衛十四郎、市川右太衛門を、スクリーンの中に、手を握りしめながら眺めていました。
テレビのない時代、映画鑑賞はお金がかかったわけです。それなのに父は、そのために毎回、小遣いをくれたのです。父が親戚のおばさんから、『中村錦之助に似てる!』と、小学生の私は言われて、何時の日にか、映画俳優瓊でもなりたかったのかも知れません。そんな贅沢をさせてくれた父は、そんな思いを知ってか、小遣いをくれたのでしょうか。兄たちも、弟も、そんな我が儘は許されていなかったのです。
映画に刺激されて、当時の子どもたちの遊びは、「チャンバラ」でした。里山に入って行っては、小枝を切り取って、小刀の「肥後守」で、木を切り刻んで、刀を作ったのです。それを、腰のベルトに挟んで、映画さながらの斬り合いをするのです。ベーゴマを回したり、メンコをしたり、馬乗りや馬跳び、宝島や鬼ごっこや陣取りなど、集団遊びをしていて、宿題をやった記憶がないほどでした。
きっと、病弱だった私が、健康を回復して、小学校の四年生頃から、やりたい放題に、親はさせてくれたのでしょう。学校では落ち着いて席につけずに、悪戯をしては、廊下や校長室に立たされていました。親は、それを知っていても、知らぬそぶりで、一度も叱られた覚えがないのです。もしかしたら、自分に都合の悪いことは忘れてしまっていたのかも知れません。
五年生の時は、クラスの番長になっていました。組分けの時に、最初に呼ばれたので、みんなに注目されて番長にされたのです。我が儘に育った私は、その才覚がなく、一年後の六年生の時には、寝返りを打たれて、立場を失ってしまい、消防署の所長の息子だけが仲間でした。子供の世界って、結構大変なのですね。
そんなで、時代劇のフアンだった私は、年をとってから、それが蒸し返しになって、「勧善懲悪」で、強きをくじき、弱きを助ける、筋書きのはっきりしていて、同じ様な話の結末で終わって行くのが好きで、時々見てしまいます。
黒澤明のリアルで怖いものではなく、切られて倒れるだけの時代劇映画が好きなのです。テレビ映画で、「鬼平犯科帳」がよかった。同じ学年の中村吉右衛門は、歌舞伎俳優なのに、テレビの娯楽映画の主演をしていました。テレビ放映されていた時期には、観たことがなかったのですが、今でも、“youtube “で見ることができるのです。
「三つ子の魂百まで」、子ども心を、鷲掴みにされた私は、中年期には見向きもしなかった、時代劇の観劇に、年を重ねた今、呼び戻されているのかも知れません。
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