そう言う

 

さあ、
暗黒に向かって「光あれ」、
悲しみに向かって「喜びあれ」、
憎しみに向かって「愛あれ」、
圧迫に向かって「開放あれ」、
争いに向かって「平和あれ」、
敵に向かって「友よ」、
病に向かって「治癒あれ」、
鬱に向かって「気晴らしあれ」、
心配性に向かって「楽観であれ」、
涙に向かって「笑顔であれ」、
喧嘩に向かって「和解あれ」、
怠惰に向かって「勤勉あれ」、
多忙に向かって「休息あれ」、
恐れに向かって「安心あれ」、
孤独に向かって「慰めあり」、
拒絶に向かって「受容あれ」、
束縛に向かって「自由あれ」、
奴隷に向かって「解放あれ」、
滅びに向かって「再生あれ」、
破壊に向かって「再建あれ」、
汚れに向かって「聖くあれ」、
過去に向かって「明日がある」、
過ちに向かって「赦しあり」、
人の悪意に対して「挫(くじ)けない」、
敵対者に向かって「味方がいる」、
そして死に向かって「永遠の命がある」と言おう。
高価で尊い私の心に敵対して立つものに向かって、そう言おう!
失敗を恐れるな!
過去に怯えるな!
ありのままの自分でいよう、
新しく変えられるのに期待しよう、
生かされている事実に立って、そう言う。

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生きよ!

 

 

[HP/里山を歩こう]が、昨晩配信してくださった、広島県呉市の黒瀬川の川沿いに咲く、セイヨウカラシナとヒメジオンです。《たくましさ》を感じさせてくれます。

昨晩、出先の家の隣の建物の27階から、13歳の少女が身を投げました。「感謝と喜びの夜」なのに、自らの命を断たなければならない現実が、すぐ隣にあるのを知らされて、しばらく強烈な〈無力感〉を覚えさせられてしまいました。何かして上げられなかったかと思って、できなかったからです。

そう、『彼は、こう言った現実の中に、おいでくださったのだ!』と思わされたのです。命の付与者の前に、人が生きていて、自らの責任で生きているのだ、と思わされました。隣にいる人の〈生きていけない現実〉に、それでも私たちは、して上げられることがあるのだとも思わされました。諦めませんし、この悲しい現実に押しつぶされません。娘さんを、こういった形で亡くされたご両親や兄弟のために、何かできるかを考えています。

どんな現実があっても、人が生きていけるように願い、何か助けて上げたい思いでいっぱいです。自分も、生きにくい、この世の中で、自らを鼓舞してくださる出会いがあって、今日まで生きられたことを思い返しています。私が聞いた『それでも生きよ!』と言われる、天来の声を聞いて欲しいのです。

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カスがいい

 

 

『♯十五、十六、十七と、私の人生暗かった♭』と、十代の女性演歌歌手の藤圭子が、可愛らしい顔に似合わず、歌っていたのが思い出されます。この藤圭子と同じ故郷の大雪山麓の中学校の一級下だった方が、こんなことを、ご自分の著書の中で記しておいででした。

『藤圭子は、学業成機が優秀で評判でした。』とです。向学心もあったに違いありません。でも、ご両親が浪曲師で、街から村へと渡り行く「旅芸人」で、高校進学を断念せざるを得ませんでした。それで、ご両親を助けておられたそうです。お母様の目が不自由で、彼女が長女だったこともあって、大変な苦労をされたのだそうです。

東北の街で生まれ、北海道内を渡り歩いて、自分でも、前座で歌を歌ったり、浪曲を演じたりしていた様です。東京に出て来て、錦糸町や小岩などの盛り場を、お母様と一緒に流して歩いて、「三曲200円」と稼いで、家族を支えていたそうです。まさに、歌の歌詞の様な生き方を、幼い日からして来た様です。

そういえば、私の十代前期も暗かったのです。恵まれた環境の中にいて、何不自由なく生きられたのに、心の中に闇が広がっていたのです。それって、子どもから大人になって行く過渡期で、〈思春期の闇〉と言えるでしょうか。何かトンネルの中にいる様な、不快感、圧迫感があって、上手く生きられなかったのす。

バスケットをしたり、映画を観たりしていも、勉強もままならなかったのです。それでも、学外からの〈実力テスト〉になると、なぜか、学年で十番以内に入ったりの〈チグハグ〉な時期でした。そんな自分に担任は気付いていた様です。中三の最後の卒業の通信簿に、『よく立ち直りました!』と行動評価を書いてくれ、ほんとうに立ち直ったのです。

 


盗みを働いたり、停車中の電車のドアーを開けてしまったり、喧嘩をしたり、タバコを吸ったり、お酒を飲んだりの〈危なっかしい年齢〉を、ヨロヨロと通り過ごすことができたのです。徒党を組んでではなく、何時も単独犯でした。通報された学校も、呼び出された親も知っていたのに、なぜか処罰されなかったのです。私立の中学でしたから、停学とか退学もあったのですが、『もっと悪くなるといけない!』と考えたのでしょうか。

重大なことがあったのに、何もなかったかの様に通り越した私は、大学にも進学でき、何と学校の教師にもなれたのです。「子は鎹(かすがい)」という言葉があります。きっと私の母は、『子はカス(クズや不用品のワルのことです)がいい!』とでも思ったのでしょうか、嘆く代わりに、ただ天に向かって手を挙げて願うばかりだったのでしょう。

でも、私は心を天に向けて、『ごめんなさい!』と言って、《赦されたこと》を確信したのです。それ以降、燦々と降り注ぐ陽のシャワーの中で、嬉々として生きて来れるようにされ、感謝しているのです。こんな恥な過去を書ける年齢になったのでしょうか。『何と詫びようか、お袋に?』と思ったまま、その機会も得ずに、お袋は天に帰って行ってしまいました。でも、『今の俺の姿を見たら、安心してくれることだろう!』、と勝手に思っている年の暮れです。

(以前の中央線ホームから西武国分寺線ほーむ、「子は鎹」の落語の漫画です)

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