十二分

 

 

「知足(ちそく)」と言う漢語があります。辞書に、『[老子「自勝者強、知レ足者富」から〕]足るを知ること。身の程をわきまえてむやみに不満をもたないこと。 「 -守分」』とあります。

人の欲望って、際限なく強く、大きくなるものなのでしょうか。自分の来し方を顧みますと、「縁」のないものが幾つかありました。[褒賞(ほうしょう)]と[栄誉]と[お金]でしょうか。平々凡々の凡人で生きて来た様です。

ユダヤの古書に、『蛭(ひる)にはふたりの娘がいて、「くれろ、くれろ。」と言う。飽くことを知らないものが、三つある。いや、四つあって、「もう十分だ。」と言わない。陰府(よみ)と、不妊の胎、水に飽くことを知らない地と、「もう十分だ。」と言わない火。』とあります。陰府と不妊の胎、地、火は、深くて大きくて際限なく広がっていくからでしょうか。

つくづく思うのですが、父が大富豪で、巨万の富を残してくれて、自分の「相続分」が溢れる程にあったら、きっと良からぬことに使って、身を滅していただろうと思うのです。私の父は、豊かだった時期があったのですが、晩年は、家と、書庫にわずかな書籍と、一竿(ひとさお/家具などの量子で言う様です)の洋服ダンスに中に収まる程のわずかな物で満足して生きていました。

それに引き換えると、私などセーター7着、パンツが10枚、靴だって5足ほどあります。溢れる程ではありませんが、十二分に備えられている生活ができています。生まれてから、「食べられない日」は、病気と断食した日以外にはありませんでしたし、財布の中には、いつも千円札が入っていました。

蛭の様に、際限なく欲しがれば、きりがないのですが、ほどほどに生きて来れた、この凡々たる生活で満足しています。日本に帰れば、僅かばかりに年金が、口座にあるでしょうか。盗みもしなかったし、人も騙さなかったし、人に乞うこともなく生きて来れたのですから、感謝でいっぱいです。まさに《知足》の人生で、《十二分》であります。

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