子曰く

 

 

中学生になって、国語の時間に、『子曰く(しいわく)』という言葉に出会いました。これは、『孔子がおっしゃるには』との意味で、「四書五行」を学んだ江戸時代の若者が、老師が読み上げるのに習って、漢籍書を日本語読みにした名残でした。武士の子弟は、武術だけではなく、「読書」も 欠かせない学びの学課でした。木版で書物が印刷され、それを読んだのです。

江戸幕府の学問所を、「昌平黌(しょうへいこう)」と言いました。今の東京大学の母体になるでしょうか。湯島の昌平坂にありました。直参だけではなく、藩士や郷士や浪人の子弟も、そこで学ぶことができたそうです。優秀な人材は、ここに送られて、儒学、漢学、国学を学んだのです。江戸期の日本の教育は、世界に注目されていて、士族以外でも、多く庶民が読み書き算盤ができ、識字率は世界に抜きん出て高かったそうです。幕末に訪れた欧米人が、驚くほどだった様です。

先週は、「読書週間」だそうです。読書離れが甚だしくて、スマホの出現で、なおも読書をしなくなっていくことでしょうか。そういえば、駅前や繁華街にあった、本屋が消えてしまって、それに歯止めがきかない時代なのだそうです。「書を捨てよ町に出よう」を著した寺山修司は、自分では、そんなことを言いながらも、多くの書を読み、書物を書いているのです。

この評論集が、1967年に出されてから、若者の書物離れが始まったかも知れませんね。それは二十二で社会人になった年でした。給料をもらう様になった私は、寺山に倣わないで、本を買っては読み始めました。本を買う負担は、結構多かったのです。五十代には、事務所に本がいっぱいになっていましたが、こちらに来た後に、全部処分されてしまいました。これって◯◯ですよね。

まあいいか、持って行くことができないものだからです。でも、先日、"Amazon"で、その蔵書の中にあったのと同じ作者の同じ本を、2冊買ったのです。どうしても読みたくなって、誘惑されて買ってしまいました。今、弟の家に届けてもらってあります。若い頃に、大いに啓発された本です。

季節は好いし、やっぱり昔の人が言った、《読書の秋》の到来なのでしょう。スマホを覗き込むのではなく、電車に座りながら、読書をしているご婦人の知的な美しさは絵になりそうです。昨日初めて、この町の地下鉄に乗って、駅まで出掛けました。朝早かったので、学生がほとんどでした。30分ほど乗ったでしょうか、学生が降りてしまって、私の座ったシートと前のシートが、12人分あって、そこに座った10人が、スマホに見入っていました。行きも帰りも、見ていなかったのは、隣の年配のご婦人と私だけでした。

せっかくの《読書の秋》なのに、どなたも本を読んでいないのは、ここも日本も同じなのでしょうか。孔子は、現代のこんな世相を、どう感じるでしょうか。きっと、『君子、スマホに近づかず!』と言うことでしょう。目を悪くしたり、会話がなくなくなって、コミュニケーションを取れなくなっている元凶、《危うき》に近かづかない様に、弟子たちに、『子曰く』なのでしょう。

(幕府の学問所のあった湯島の「昌平坂」です)

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牛肉面の日

 

 

[90日滞在査証]での入国ですので、昨日は、家内と二人で、最も近い国外とのことで、台湾の金門島に行って来ました。福建省のアモイ(厦门xiamen)から、船で片道40分ほどの往復の旅でした。知人が、港の近くにおいでですが、連絡をしますと、ご迷惑がかかりますので、連絡せずに上陸して、すぐに<トンボ帰り>をしました。

これまで、知人の家に泊めていただいたり、ホテルに投宿したこともありますが、多くの場合は、日帰りなのです。いつも 、ちょうど上陸が昼前でずので、「牛肉面niuroumian」を食べるのです。この「码头matou(日本語で港とか波止場でしょうか)」の真ん前にある食堂ででした。この島には、牧場があって、牛肉が特産だそうで、それを食材にした麺で、大好物なのです。

厦門には「鼓浪屿gulangyu」という島があって、かつての「租界」があった場所で、その諸外国の領事館や学校などの建物が残る、観光名所です。鄧小平氏が、この街に力を入れたからでしょうか、とても整った綺麗な街です。厦門大学があって、優秀な教師陣が優秀な学生を教えているそうです。

前回の金門行きは、結婚記念日でしたので、アモイに帰って来て、「ニッコウ厦門ホテル」に投宿し、久しぶりに日本料理をいただきました。結婚以来初めて、ちょっと贅沢をしましたが、今回は日帰りのスルーでした。美味しかったので、満足な「牛肉の日」の一日旅行でした。

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誕生会

 

 

この土日、お二人の「誕生祝福会」の宴席に呼ばれました。この街でも名のあるホテルを会場に、大変なご馳走だったのです。お一人は、「十八歳」の誕生日で、ここ中国では「成人」の年齢で、ご両親、祖父母、兄弟姉妹、友人たちがお祝いに呼ばれ、私たちも、孫を祝福をして欲しいと、とくにおばあちゃんにお招きをいただきました。

もうお一人は、「七十六歳」になられるご婦人で、香港においでの息子さんが、パーティーを開かれて、お呼ばれしたのです。隣では党大会が開かれるほどの一劃にあるホテルでした。「寿shou」という文字がスクリーンに映されていて、主に友人たち100人もの人が駆けつけていました。

お嬢さんは、来年、高校卒業の後、イギリスかアメリカに留学を考えていて、絵の勉強をされるそうです。この省の観光地に一緒に旅行したりしたこともあり、綺麗に成長されていました。同世代の方は、香港にお住まいで、この街にもお住まいを持っていて、度々行き来をされていて、友人たちに祝福を願っておいでです。

この国で、交わりをもたせていただいている長幼お二人の誕生日をお祝いすることができ、感謝な二日連続の誕生会でした。

(野生化した「ウキツリボク」が満開、チロリアンランプとも呼ばれています☞[hp/里山を歩こう]からです)

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古写真

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この写真に写った個所は、小学校二年生から、大学三年まで住んだ街の懐かしい場所の新旧二葉の写真です。上の写真には、東京と高尾の間を結ぶ中央線の踏み切りがあります。高尾行きの電車が、日野駅を出たところで撮影されています。右に見える三角屋根の建物は、地蔵堂で、ここで、地域の寄り合いをしていました。

この踏切を開閉する番をしていたおじさんと父が懇意で、この踏切から線路伝いに、改札を通らないで、駅のホームに上がって通勤していました。弟が、よく父の感謝を届けていて、おじさんに可愛がられていました。旧国鉄の電車の部品を作っていた会社の経営陣だっので、そんなことができたのでしょう。

実は、この坂から上がってくる道路は、江戸の内藤新宿から、甲州路を通って、信州の下諏訪宿で、「中山道」に繋がる「甲州街道」の旧道なのです。多摩川の渡しを渡って、丘陵に上がっていく道の途中を、南北に「甲武鉄道」が敷かれ、これがやがて「中央線」になっていくのです。同じ箇所の下の写真は、日野駅の区画整理で、踏み切りをなくして、線路と丘陵との間の向う側に、新しい道を敷設した後の写真です

その踏切から50mほどの坂の途中に、父が家を買って住み始めたのです。この電車は、立川駅から多摩川を渡って来たもので、豊田駅、八王子駅へと向かって進んで行きます。電車の後方には、甲州街道、国道20号線が走っていて、住み始めた当時の駅の写真が、下の写真で、国道と交差する様に、高架で中央線の電車がみえます(この下の写真です)。

 

 

こんな写真を見つけることができ、とても懐かしく眺めています。電車の形式が、いかに古いかを伝えています。このコンクリートの道路が、国道20号線で、右上の方に、日野坂が続いていて、登りきった所に、トラック製造で有名な日野自動車の工場がありました。その正門の近くに、私たちが結婚して一年ほど住んでいたのです。見える電車の後ろ側の丘陵の麓に、アメリカ人起業家が住んでいて、この方の事務所がありました。

バス停のサインが、駅の真ん前に置かれているのも、交通量や駅の通勤客が少なかった当時だったからできたのでしょう。この駅舎の作りは、民家造りで、造られれた当時と同じ形を、今でも維持していて、JRの駅舎としては有名なものです。父母や兄弟が、よく利用した駅ですから、実に懐かしいのです。郷愁の街と駅です。

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祝福

 

✳︎タップしたら拡大します!

この写真は、昨年入院した病院のリハビリテーション科の入り口の横の壁に、掲出されていた「詩」です。退院間もない時に、撮影したものです。ニューヨーク大学の壁に掲げられていて、150年ほど前に、南北戦争に従軍した南軍の兵士が記したものと言われていて、匿名の詩です。「悩める人々への銘」と翻訳されています。英語の原文は、下記の通りです。

I asked God for strengh, that I might achieve
I was made weak, that I might learn humbly to obey…

I asked for health, that I might do greater things
I was given infirmity, that I might do better things…

I asked for riches,that I might be happy
I was given poverty, that I might be wise…

I asked for power, that I might have the praise of men
I was given weakness, that I might feel the need of God…

I asked for all things, that I might enjoy life
I was given life, that I might enjoy all things…

I got nothing that I asked for-but everythingI had
hoped for

Almost despite myself, my unspoken prayers were answered.
I am among all men, most richly blessed

AUTHOR UNKNOWN

きっと多くの病人や、人生の苦悩に直面した人に、生きて行く勇気を与えたことでしょう。私のリハビリを担当してくださった療法士の皆さんが、患者さんたちを激励しようとしていたのでしょう。回復が遅くて悩んでいた方たちもおいででしたから、この祝福は助けになったのでしょう。

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まあいいか

 

 

最近、ちょっとズルをしています。と言うのは、携帯電話(スマホ)で、日用の食料や雑貨などを注文できるサイトを、若い友人にダウンロードしてもらって、使い始めたからです。この“デリバリー”の売りは、<30分以内のお届け>、買い物額が累積した段階で使える<現金割引>、近くのスーパーに比べ<割安>といったところでしょうか。

今日は小雨ですし、家内は今夕、クラスがありますので、買い物に出かけないとのことで、羊肉(冷凍でない鮮肉)、トマト、ピンサイ(生野菜)の三点を、スマホで注文してみました。これを5元の割引ができ、ちょっと得をした感じでした。注文して支払いを済ませてから、何と15分で宅配がありました。鮮度も良好です。

こうなると、安い、早い、お得感で、ますます利用してしまいそうです。特別な支払い方法があって、スマホ一つで決済ができるのです。先日来られた方が、花の名前が分からなかったので、スマホをかざすと、名前が表示されたのです。こんなにも便利なのには、もう私たちの世代は驚くだけで、なかなか利器についていけないのです。

ところで、このところ夕食の料理をしていなかったのですが、今晩、その「羊肉」を、久し振りに調理したのです。ニンニクとワインと醤油に、塩胡椒で3時間ほど下味をつけて寝かしたのです。それをフライパンで焼いて、野菜炒めを添えてテーブルに並べ、家内と一緒に食べたところ、何と<歯が立たない>ではありませんか。

どうも料理法を間違えてしまった様です。羊の皮の厚さに驚かされてしまったのですが、ニンニクと醤油の匂いが、食欲を増させ、結局、<ふりかけ>で食べた夕食でした。期待が大きすぎてのガッカリも大きかったのです。何年も前、ニュージーランド産のラム(子羊の肉)を、米人起業家からいただいて、子育て中に、よく食べたのを思い出しました。あの味を期待したのです。で、まあいいかの夕食後です(11月2日の夕方記)。

(ニュージーランドの国花の「コーファイ」です)

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絶対者

 

 

文部科学省の問題行動・不登校調査によると、2017年度に全国の小・中・高校等で認知したいじめの件数が前年比28%増の41万4378件となり、過去最多となった。児童生徒1000人あたりの認知件数は30.9件だった。学校種別では、小学校が31万7121件、中学校8万424件、高校1万4789件、特別支援学校2044件で、いずれも前年より増加した。

文科省は、発生した場所が学校内かどうかは問わず、当事者が心身の苦痛を感じているものを「いじめ」と定義し、早期発見、早期対処を重視している。いじめ件数が急増しているのは、児童生徒が置かれている環境が急激に悪化しているというよりも、学校現場で、事態が深刻になる前に積極的に認知し、対応する動きが広がっているためと考えられる。

ただ、いじめ防止対策推進法に基づき、生命、身体、精神、金品に重大な被害が及ぶ「重大事態」と認定されたいじめも、前年度比78件増の474件となり、予断を許さない状況だ。

いじめの内容(複数回答)としては、「冷やかしやからかい、悪口など嫌なことを言われる」が62.3%と圧倒的に多く、「ぶつかったり、遊ぶふりをしてたたかれたり、蹴られたりする」21.0%、「仲間はずれ、集団による無視」14.1%と続いた。

いわゆる「LINEはずし」や「既読スルー」などSNS経由のコミュニケーション上で起こるいじめや嫌がらせは1万2632万件だった。全体に占める割合は3%だったが、高校生に限れば17.5%に上った。

★この記事は、”nippon.com”の「いじめ認知件数、過去最多の41万件 : 生命、精神に影響及ぼす重大事案は474件」に転載です。2017年度の報告ですが、これは国として憂うべき数です。

『この事態をどうするか?』を考えなければなりません。問題の根は深いのです。<異質者>を認めず、受け入れない大人たちの社会に、子どもたちが生きています。こんなに<生きにくい社会>が出来上がって、家庭と子どもたちの<精神の戸惑い>が見られます。この様に、「愛が冷える時代」に必要なものは、《絶対者との出会い》の他になさそうです。

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浅田次郎の著した「壬生義士伝」が映画化され、その主人公を中井貴一が演じていました。この人は、山梨県韮崎市の塩川(富士川の上流)を横切る国道20号の橋桁で、衝突死した俳優の佐田啓二の一人息子です。盛岡藩の脱藩浪士で、新選組の隊士・吉村貫一郎を演じていて、自分の故郷自慢をしている場面があります。盛岡のめぐりにある岩手山や 姫神山の名を上げて、山紫水明の盛岡を、新撰組の剣の達人、斎藤一に自慢していたのです。

誰もが自分の生まれ育った村や国の《国自慢》をするものですが、吉村貫一郎の自慢話を聞いて、盛岡って、どんなに綺麗な町であるのか、私は知りたくなってしまったのです。総理大臣を務めた原敬、米内光政、国際連盟事務次長を務めた新渡戸稲造(ほとんど江戸で育っていた様です)、詩人の石川啄木、その他無名の多くの人、この様な人たちが生まれて、育った街が、どんな街か興味津々なのです。

ここも通過しただけで、一度も訪ねたことがありません。剣術や軍事の専門家だけではなく、新渡戸稲造の様な、国際社会で活躍しうる人材を生んだ街であることは、大きな意味があるに違いありません。とかく東北人は、口の重い"ズーズー弁"で話すのだと言われてきましたが、人は朴訥(ぼくとつ)で、親しみやすいのです。

稲造は、十五歳で札幌農学校に入学していますが、気性の荒い鬼熊の様な男が、在学中に、穏やかな気性の人に変えられたと言われています。 あのクラークの教えを受けた上級生の感化を受けたからだそうです。 十五歳の青年を、作り変えてしまった札幌には、去年二度訪ねたので、今度は盛岡に行ってみたいのです。

北上川や雫石川の流れは綺麗なのでしょうね。古い日本が残されていそうです。中華風の”じゃじゃ麺”"の誕生の地だとも聞いたことがあります。旧満州に住んで、戦後帰国した方が、満州で食べた"ジャージャー麺"を基本に、工夫して作り、屋台から始まった、盛岡の郷土料理です。この稲造が食べたことのないと言うのが面白くて好いですね。稲造は、一高の面試の折に言った、『わたしは太平洋の橋になりたい!』を、見事に実現しています。十代に想い描いた夢でした。

(盛岡市内から望み見る「岩手山」です)

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霜月

 

 

いよいよ「霜月(しもつき)」、十一月です。この七日には、「立冬」となります。中国の黄河周辺の地域を基準に、太陽の動きを二十四に分けて、「二十四節気」が定められました。それを、日本でも受け入れて、旧暦、農業暦で、季節を暦の上で定めたのです。

今朝の外気は冷たく、ベランダの寒暖計は、"19℃"を示しています。濃紫の朝顔の花が開きました。まだ日の光がありませんので、鮮明ではありませんが、実に綺麗に咲いてくれました。

暦の上では冬が訪れるのですが、季節としては一番快適な時季でしょうか。もう学生のみなさんは、学校に「上课shangke」、出掛けて行く姿が見られます。秋を見つけに、私も出掛けて行きたいものです。

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奈々子

 

 

奈々子に       吉野弘

赤い林檎の頬をして
眠っている 奈々子。

お前のお母さんの頬の赤さは
そっくり
奈々子の頬にいってしまって
ひところのお母さんの
つややかな頬は少し青ざめた
お父さんにも ちょっと
酸っぱい思いがふえた。

唐突だが
奈々子
お父さんは お前に
多くを期待しないだろう。
ひとが
ほかからの期待に応えようとして
どんなに
自分を駄目にしてしまうか
お父さんは はっきり
知ってしまったから。

お父さんが
お前にあげたいものは
健康と
自分を愛する心だ。

ひとが
ひとでなくなるのは
自分を愛することをやめるときだ。

自分を愛することをやめるとき
ひとは
他人を愛することをやめ
世界を見失ってしまう。

自分があるとき
他人があり
世界がある

お父さんにも
お母さんにも
酸っぱい苦労がふえた

苦労は
今は
お前にあげられない。

お前にあげたいものは
香りのよい健康と
かちとるにむづかしく
はぐくむにむづかしい

自分を愛する心だ

こんなお父さんに見守られ成長した「奈々子」に会ってみたいと思うのです。《自分を愛すること》を教えたお父さんが素晴らしいからです。自己否定、自己否認が、多く見られるこの世で、ありのままの自分を愛せたら、順境の日も驕らず、また逆境の日にも凹まずに生きていけるからです。自分を愛せたら、隣人を愛することだってできます。そんな赤い頬の「奈々子」に会ってみたい!

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