人生の最も好い8年間を一緒にお過ごして、多くのことを教えていただいた《お師匠さん》は、アトランタの大学の工学部を出て、空軍のパイロットをされておいでしたが、日本を愛して、二十代の中頃にやって来られたのです。1972年の8月に、中部圏の地方都市で、ご自分の事業を開拓されて、私は8年間彼の働きの助け、きっと邪魔の方が多かったかも知れませんが、一緒に働きました。
日本人の奥様との間に、二人の男の息子さんがおいででした。温厚な方で、近所の方には、とても評判の好い方でした。貸家住まいをされ、純和式トイレで、アメリカの地方都市の名門の出身でしたが、日本風の地味な生活をされておいででした。前立腺の病気で、2002年に66才で召されました。
この方は、ジョージアの片田舎(フロリダ州タラハッシーに近い州の南部の街です)で、”GE(General Electric)“の電気製品を扱う<街一>の電気店を経営するお父さんとお母さんに愛されて育ったのだそうです。彼が日本で住んでいた家は、『子どもの頃に、ジョージアで住んでいた家の自分の遊び部屋は、この家と同じほどです!』と言っていました。アトランタの大学で学んで帰京すると、お父さんは、地下の「牛肉貯蔵庫」に降りていって、吊るされている牛の一番良いところを切って、ステーキにしては食べさせてくれたそうです。
彼は、<アメリカ版御曹司(おんぞうし)>で、街では自慢の息子を持つ両親として知られていた、そんな羨ましくも、次元の違う話を聞かされて、一緒に働いたわけです。<日本版>の私は、太刀打ちができませんでしたが、ただ尻尾を丸めているだけではなくて、実は爪を研いでは、反発していたのです。<御曹司対決>で、彼も若く、私も若くて、正直にぶつかり合ったと言うのが正しいと思います。それだけ近く親しかったと言うことでしょうか。
彼が、2002年9月に召されたのですが、その直前、入院中の彼を見舞った時に、彼の方から、先ず、私を赦してくれました。そして『I am sorry /御免なさい!』と、ご自分の若い日の不足と未熟さを詫びられたのです。それを聞いた私も、心から悔いて、『私の方こそ、御免なさい!』と言いました。私は、私の家族と彼の家族の間であった軋轢や不和、たぶん不理解でしたが、それについて、第三者に言うことをしませんでした。内々にしたのです。
この方のことを思い出しますと、レイ・チャールズが歌った、”Georgia On My Mind “と言うジャズの名曲を思い出すのです。このチャールズは、黒人差別に反発し、故郷の南部ジョージア州との関係を悪化させたことがあったそうですが、その優れた歌唱力は、誰もが認めるほどで、1979年に、この彼の歌った歌が、ジョージア州の州歌になったのは有名な話です。この中国だと、私たちの住む省は、アメリカ合衆国のジョージアと同じ様な位置にあるかも知れません。
北京語を話す都会人には、この地方都市は田舎に見えるでしょうし、訛り言葉がはっきりしていると言われています。最近、北で育った方の言葉との違いが聞き取れる様になり、私たちの話し言葉は、基本的に、「普通語putonghua」だと言われます。12年前に、天津で中国語を最初に学んだ名残なのでしょうか。あの師匠の英語も、“ジョージア訛り”だったのでしょうね。懐かしい方です。
(アメリカの通貨で“4分の1ドル”で州の名産「桃」がデザインされています)
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