牛肉面の日

 

 

[90日滞在査証]での入国ですので、昨日は、家内と二人で、最も近い国外とのことで、台湾の金門島に行って来ました。福建省のアモイ(厦门xiamen)から、船で片道40分ほどの往復の旅でした。知人が、港の近くにおいでですが、連絡をしますと、ご迷惑がかかりますので、連絡せずに上陸して、すぐに<トンボ帰り>をしました。

これまで、知人の家に泊めていただいたり、ホテルに投宿したこともありますが、多くの場合は、日帰りなのです。いつも 、ちょうど上陸が昼前でずので、「牛肉面niuroumian」を食べるのです。この「码头matou(日本語で港とか波止場でしょうか)」の真ん前にある食堂ででした。この島には、牧場があって、牛肉が特産だそうで、それを食材にした麺で、大好物なのです。

厦門には「鼓浪屿gulangyu」という島があって、かつての「租界」があった場所で、その諸外国の領事館や学校などの建物が残る、観光名所です。鄧小平氏が、この街に力を入れたからでしょうか、とても整った綺麗な街です。厦門大学があって、優秀な教師陣が優秀な学生を教えているそうです。

前回の金門行きは、結婚記念日でしたので、アモイに帰って来て、「ニッコウ厦門ホテル」に投宿し、久しぶりに日本料理をいただきました。結婚以来初めて、ちょっと贅沢をしましたが、今回は日帰りのスルーでした。美味しかったので、満足な「牛肉の日」の一日旅行でした。

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誕生会

 

 

この土日、お二人の「誕生祝福会」の宴席に呼ばれました。この街でも名のあるホテルを会場に、大変なご馳走だったのです。お一人は、「十八歳」の誕生日で、ここ中国では「成人」の年齢で、ご両親、祖父母、兄弟姉妹、友人たちがお祝いに呼ばれ、私たちも、孫を祝福をして欲しいと、とくにおばあちゃんにお招きをいただきました。

もうお一人は、「七十六歳」になられるご婦人で、香港においでの息子さんが、パーティーを開かれて、お呼ばれしたのです。隣では党大会が開かれるほどの一劃にあるホテルでした。「寿shou」という文字がスクリーンに映されていて、主に友人たち100人もの人が駆けつけていました。

お嬢さんは、来年、高校卒業の後、イギリスかアメリカに留学を考えていて、絵の勉強をされるそうです。この省の観光地に一緒に旅行したりしたこともあり、綺麗に成長されていました。同世代の方は、香港にお住まいで、この街にもお住まいを持っていて、度々行き来をされていて、友人たちに祝福を願っておいでです。

この国で、交わりをもたせていただいている長幼お二人の誕生日をお祝いすることができ、感謝な二日連続の誕生会でした。

(野生化した「ウキツリボク」が満開、チロリアンランプとも呼ばれています☞[hp/里山を歩こう]からです)

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古写真

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この写真に写った個所は、小学校二年生から、大学三年まで住んだ街の懐かしい場所の新旧二葉の写真です。上の写真には、東京と高尾の間を結ぶ中央線の踏み切りがあります。高尾行きの電車が、日野駅を出たところで撮影されています。右に見える三角屋根の建物は、地蔵堂で、ここで、地域の寄り合いをしていました。

この踏切を開閉する番をしていたおじさんと父が懇意で、この踏切から線路伝いに、改札を通らないで、駅のホームに上がって通勤していました。弟が、よく父の感謝を届けていて、おじさんに可愛がられていました。旧国鉄の電車の部品を作っていた会社の経営陣だっので、そんなことができたのでしょう。

実は、この坂から上がってくる道路は、江戸の内藤新宿から、甲州路を通って、信州の下諏訪宿で、「中山道」に繋がる「甲州街道」の旧道なのです。多摩川の渡しを渡って、丘陵に上がっていく道の途中を、南北に「甲武鉄道」が敷かれ、これがやがて「中央線」になっていくのです。同じ箇所の下の写真は、日野駅の区画整理で、踏み切りをなくして、線路と丘陵との間の向う側に、新しい道を敷設した後の写真です

その踏切から50mほどの坂の途中に、父が家を買って住み始めたのです。この電車は、立川駅から多摩川を渡って来たもので、豊田駅、八王子駅へと向かって進んで行きます。電車の後方には、甲州街道、国道20号線が走っていて、住み始めた当時の駅の写真が、下の写真で、国道と交差する様に、高架で中央線の電車がみえます(この下の写真です)。

 

 

こんな写真を見つけることができ、とても懐かしく眺めています。電車の形式が、いかに古いかを伝えています。このコンクリートの道路が、国道20号線で、右上の方に、日野坂が続いていて、登りきった所に、トラック製造で有名な日野自動車の工場がありました。その正門の近くに、私たちが結婚して一年ほど住んでいたのです。見える電車の後ろ側の丘陵の麓に、アメリカ人起業家が住んでいて、この方の事務所がありました。

バス停のサインが、駅の真ん前に置かれているのも、交通量や駅の通勤客が少なかった当時だったからできたのでしょう。この駅舎の作りは、民家造りで、造られれた当時と同じ形を、今でも維持していて、JRの駅舎としては有名なものです。父母や兄弟が、よく利用した駅ですから、実に懐かしいのです。郷愁の街と駅です。

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