訪問

 

 

昨日は、「老人院laorenyuan/老人ホーム」の訪問に誘われて、二人の友人と一緒に、隣の街に出掛けました。昔、民国時代に、海軍の学校のあった軍港の街でした。その地元のご婦人が二人おいでになっていて、私たちを迎えてくれました。この一年ほどの間に、このホームで、読書会を開いて来ていたのです。その「読書会」のメンバーの部屋を、案内されて訪ねたのです。

そのお一人、85歳のご婦人は、小学校の教師をされた方で、私たちの昼食のためにと、お金を下さったほどに、訪問を喜んでくださったのです。こぼれてしまいそうな笑顔の方で、実に素晴らしい老後を過ごしておられました。私が若い頃に読んだ伝記の人物を、実際に知っておられ、その頃のことを話してくれました。

もうお一人の方は、1919年生まれで、ちょうど100歳でした。上海の医科大学を出て、小児科医をされていたそうです。このご婦人のお父様もお母様も立派な方で、ご自分の家を開放して、徒歩で旅をする旅人のみなさんを、宿と食べ物で歓待し、迎えては送り出して奉仕をされたそうです。そういったご両親に育てられたからでしょうか、専門外の外科の手術までされて、多くの人を助けてこられた様です。

とても100歳には見えない、穏やかで素敵なお顔をされていたのです。独身のままで、弱者の医療に携わってきたそうですが、ちっとも偉そうにしていない老婦人でした。もうお一人は、部屋を訪ねた時に、机に向かって、分厚い本を読んでおられました。この方の愛読書で、読むのを欠かさないそうです。

63歳の時に素敵な体験をしてから、家族や近所の方々や、見知らぬ人々を訪ねては、その素敵な体験を話してこられたそうです。矍鑠(かくしゃく)としたご婦人で、私たちが帰る時に、玄関の脇で見送ってくれたのです。素敵な人生の先輩のみなさんでした。100歳のご婦人は、母と二歳違いでしたから、母が生きていたら、こんな感じかなと思ってみました。

そのホームに、交通事故に会われた、四川省出身の青年がいて、頭か脊椎を損傷されていました。鍼治療(リハビリ)を受けておられたのです。同室のもうお一人のご婦人も寝たきりで、体を動かせないままで話せませんでした。このお二人のために回復を願うことができました。ご婦人は涙を流しておられました。

その帰途に、市の「デーケアーセンター」を訪ねました。始まったばかりの事業で、市の援助で運営されていて、アメリカ式の素敵な施設が出来上がっていて、何人ものご老人、そこで過ごしておいででした。音楽療法やカウンセリングを学んで、その働きをして来た同行者が、こちらで奉仕する予定になっていて、その打ち合わせに同席したのです。

その「音楽奉仕」は、最初に訪ねた「老人ホーム」の医療部の医師や看護婦さんの紹介で、始まろうとしていたです。ご老人が、喜んで歓迎してくれるという証が、その「デーケアセンター」の門戸を開いたのです。その他のセンターからも、奉仕の要請があるそです。素晴らしい業が行われるのを期待したいものです。

(この町のシンボルの「罗星搭luoxingda」です)

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三吉

 

 

愛知県の知多半島に、美浜という街があり、その小野浦に「岩吉・久吉・乙吉頌徳(しょうとく)記念碑(三吉記念碑)」があります。西の大阪と、東の江戸の間を、いわば民間の海運で、様々な物資を運ぶ、尾張の廻船業は、その小野裏の港は、中継基地となって、盛んだったそうです。

まだ14、5歳の岩吉、久吉、乙吉が乗船していたのが「宝順まる」でした。1832年(天保3年)11月3日、正月を間近にして船による海運が忙しくなる時期に、「宝順丸」は、米や陶器などの荷を積み、鳥羽から江戸へ向かって出港したのです。そこから難所として恐れられていた、「遠州灘」を一気に乗り切って江戸へ向かうのです。

当時の廻船は、江戸幕府の政策上、海外に航行を禁じるため、小さく制限され、船底の浅い小型船(15mほど)しか使うことが許されませんでした。そんな船が台風に見舞われ、難船して「宝順丸」の消息はそのまま途絶えてしまったのです。太平洋上を、何と140日も漂流して、アメリカ太平洋岸のワシントン州ケープ・アラバ付近に漂着したのです。

船荷が米でしたので、食料には困りませんでしたし、水も確保できたそうです。しかし野菜がなく、多くの水夫たちは、「壊血病」に罹って亡くなっていき、年若い三人だけが生き残ります。そこで音吉たちは、インディアンのマカ族に助けられ、後にイギリス船がやって来て3人は救われたのです。

その南方約200キロほどのコロンビア川をさかのぼった所にある、毛皮交易所フォート・バンクーバーへ引き取られました。ここで3人は初めて欧米文化に触れたのです。そして、そこからハワイを経てロンドンへ行くことになります。イギリス政府は、マカオを経由して、祖国日本に、この3人を帰すことにしたのです。すでに難破して3年が経っていました。

そのマカオで、世界的な「書物」の日本語への翻訳を手掛ける、ドイツ人のギラッツフの翻訳助手を、彼らはします。その後、1837年7月(天保8年)、音吉、久吉、岩吉、そして九州の庄蔵、寿三郎、力松、熊太郎の7人の日本人たちは、キング夫妻、パーカー、ウイリアムズらと一緒に、「モリソン号」という船でマカオを出発し、日本に向かいました。沖縄の那覇でイギリスの軍艦に乗って来た、ギュツラフと一緒になり、モリソン号はさらに日本へと進みます。そして7月30日、三浦半島の浦賀の沖に着いたのです。

ところが、モリソン号は、いきなり大砲で砲撃を受けてしまいます。交渉を諦め、鹿児島で薩摩藩と話し合おうとしましたが、ここでも砲撃されたため、とうとう音吉たちは日本に帰ることを諦めて、マカオに戻ることになります。祖国のこの仕打ちは、どんなに青年たちにとって辛いことだったでしょうか。

ところが、そのマカオで、彼らは、同じ様な境遇にあった、日本の漂流民を助ける働きをし始めるのです。そして音吉は、イギリス海軍の通訳として二度、日本を訪れています。とくに1854年(安政元年)に、スターリング艦隊とともに長崎へ来た時には、「日英和親条約」の締結交渉に力を尽くし、音吉という存在は長崎に知れ渡りました。その頃には、音吉はイギリスに帰化し、ジョン・M・オトソンと、彼は名乗っていました。

その後、音吉は、マレー人の女性と結婚し、シンガポールで貿易商として生活をし、1867年に亡くなっています。数奇な運命に負けずに、生きた姿は素晴らしいものでした。この渥美半島は、私たちの長男の嫁の故郷でもあります。お父さまに案内していただき、この三吉記念碑を見ることができました。そに時、高級な伊勢海老までご馳走になったのです。ちなみに、三浦綾子は、「海嶺(かいれい)」という小説を書き、この音吉たちの漂流を題材に記しています。

(日本の近海を航行した「廻船」です)

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