愛知県の知多半島に、美浜という街があり、その小野浦に「岩吉・久吉・乙吉頌徳(しょうとく)記念碑(三吉記念碑)」があります。西の大阪と、東の江戸の間を、いわば民間の海運で、様々な物資を運ぶ、尾張の廻船業は、その小野裏の港は、中継基地となって、盛んだったそうです。
まだ14、5歳の岩吉、久吉、乙吉が乗船していたのが「宝順まる」でした。1832年(天保3年)11月3日、正月を間近にして船による海運が忙しくなる時期に、「宝順丸」は、米や陶器などの荷を積み、鳥羽から江戸へ向かって出港したのです。そこから難所として恐れられていた、「遠州灘」を一気に乗り切って江戸へ向かうのです。
当時の廻船は、江戸幕府の政策上、海外に航行を禁じるため、小さく制限され、船底の浅い小型船(15mほど)しか使うことが許されませんでした。そんな船が台風に見舞われ、難船して「宝順丸」の消息はそのまま途絶えてしまったのです。太平洋上を、何と140日も漂流して、アメリカ太平洋岸のワシントン州ケープ・アラバ付近に漂着したのです。
船荷が米でしたので、食料には困りませんでしたし、水も確保できたそうです。しかし野菜がなく、多くの水夫たちは、「壊血病」に罹って亡くなっていき、年若い三人だけが生き残ります。そこで音吉たちは、インディアンのマカ族に助けられ、後にイギリス船がやって来て3人は救われたのです。
その南方約200キロほどのコロンビア川をさかのぼった所にある、毛皮交易所フォート・バンクーバーへ引き取られました。ここで3人は初めて欧米文化に触れたのです。そして、そこからハワイを経てロンドンへ行くことになります。イギリス政府は、マカオを経由して、祖国日本に、この3人を帰すことにしたのです。すでに難破して3年が経っていました。
そのマカオで、世界的な「書物」の日本語への翻訳を手掛ける、ドイツ人のギラッツフの翻訳助手を、彼らはします。その後、1837年7月(天保8年)、音吉、久吉、岩吉、そして九州の庄蔵、寿三郎、力松、熊太郎の7人の日本人たちは、キング夫妻、パーカー、ウイリアムズらと一緒に、「モリソン号」という船でマカオを出発し、日本に向かいました。沖縄の那覇でイギリスの軍艦に乗って来た、ギュツラフと一緒になり、モリソン号はさらに日本へと進みます。そして7月30日、三浦半島の浦賀の沖に着いたのです。
ところが、モリソン号は、いきなり大砲で砲撃を受けてしまいます。交渉を諦め、鹿児島で薩摩藩と話し合おうとしましたが、ここでも砲撃されたため、とうとう音吉たちは日本に帰ることを諦めて、マカオに戻ることになります。祖国のこの仕打ちは、どんなに青年たちにとって辛いことだったでしょうか。
ところが、そのマカオで、彼らは、同じ様な境遇にあった、日本の漂流民を助ける働きをし始めるのです。そして音吉は、イギリス海軍の通訳として二度、日本を訪れています。とくに1854年(安政元年)に、スターリング艦隊とともに長崎へ来た時には、「日英和親条約」の締結交渉に力を尽くし、音吉という存在は長崎に知れ渡りました。その頃には、音吉はイギリスに帰化し、ジョン・M・オトソンと、彼は名乗っていました。
その後、音吉は、マレー人の女性と結婚し、シンガポールで貿易商として生活をし、1867年に亡くなっています。数奇な運命に負けずに、生きた姿は素晴らしいものでした。この渥美半島は、私たちの長男の嫁の故郷でもあります。お父さまに案内していただき、この三吉記念碑を見ることができました。そに時、高級な伊勢海老までご馳走になったのです。ちなみに、三浦綾子は、「海嶺(かいれい)」という小説を書き、この音吉たちの漂流を題材に記しています。
(日本の近海を航行した「廻船」です)
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