いよいよの秋

 

 

[HP/里山を歩こう」に寄稿された、東京多摩のKAさん(10月23日)の写真です。『10月15〜16日、泊りがけで長野・新潟の県境周辺に出掛け、深秋の訪れを全身で感じて来ました!』と添え書きされてありました。

中部山岳の秋ですね。もうこんなに秋が深く、そして濃くなってきているのですか。山歩きをしたら気持ちがいいでしょうね。私の故郷も、一番充実して忙しく過ごした街から、よく訪ねた清里周辺、長野と山梨の県境も、今頃は、こんな感じなのでしょうか。

これに温泉があって、美味しい食事があったら、 至福の時を過ごせそうですね。ええ、今のここが、幸せでないと言ってるいるのではありません。窓に外も、秋が見えています。日本もこちらも、いよいよの秋です。

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紅とんぼ

 

 

いつも配信してくださる[HP/里山を歩こう]が、一昨日、「赤とんぼ」の写真を送ってくださいました。この「赤とんぼ」は「総称」であって、多くの種類の「赤とんぼ」が棲息しているのですね。

よくNHKラジオで聞いた、「にっぽんのメロディー」の最後に、昭和の郷愁を呼び起こすかの様に、この曲が流れていました。この番組は、とても人気があって、ご自分が口ずさんだり、お聞きになった思い出の歌をリクエストして、毎夜、2曲が放送されていました。中西龍アナが、リクエストに添えられた思い出を代読されて、最後には、俳句を紹介していました。その時に、この「赤とんぼ」の曲がBGMでw流れていたのです。

この童謡とは別に、「赤」を「紅(あか)」にした、「紅とんぼ」という歌もありました。作詞が吉田 旺、作曲が船村 徹、ちあきなおみが歌っていました。1988年(昭和68年)に、レコードが売り出されています。

1 空(から)にしてって 酒も肴も
今日でお終い 店じまい
五年ありがとう 楽しかったわ
いろいろお世話に なりました
しんみりしないでよ ケンさん
新宿駅裏 紅とんぼ
思い出してね 時々は

2 いいのいいから ツケは帳消し
貢ぐ相手も いないもの
だけどみなさん 飽きもしないで
よくよく通って くれました
唄ってよ騒いでよ しんちゃん
新宿駅裏 紅とんぼ
思い出してね 時々は

3 だから本当よ 故里(くに)へ帰るの
だれももらっちゃ くれないし
みんなありがとう うれしかったわ
あふれてきちゃった 思い出が
笑ってよ涕(な)かないで チーちゃん
新宿駅裏 紅とんぼ
思い出してね 時々

 

 

「新宿駅裏」にあった、酒処の名が「紅とんぼ」で、そこに通った馴染み客の名前が歌い込まれていて、実に、「昭和晩期」に、「昭和」を感じさせる歌でした。そこは、JRの新宿駅の中央線や山手線の線路脇にあって、「思い出横丁(通称は”しょんべん横丁”でした」と言われている飲食街です。その西口周辺には、まだ小田急や京王のデパート、駅ビルのない時代でした。今も、この横丁が残されている様です。

ここは、高等部のバスケット部の東京都の大会の試合の応援と、"ボール持ち"に駆り出された帰りに、新宿駅西口で降りて寄った飲食街です。つまり<ご苦労さん会>で連れて行かれて、ご馳走にになった食べ物屋が密集していました。大学に通う様になってからも、時々行ったことがあります。終戦後の掘建(ほったて)小屋から始まっていた様です。

空腹を満たした一時を、そこで過ごしたのですが、ドンブリ飯は本当に美味しかったのです。高校生やOBが振舞ってくれました。私立の中高校で、市長や国会議員や医者を親に持った先輩は、たくさんお小遣いを持っていて、何でも注文させてくれたのです。その楽しみでついて行ったのです。1950年代の終わりの事ですから、中学生の頃で、60年も前の事になります。この<ジュンちゃん>も、"ジーン”とくる様に、思い出が鮮明であります。

(「このしめとんぼ」と昭和30年代の「新宿駅西口」です)

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イヌセンブリ

 

これは、[HP/里山を歩こう]が配信してくださった、「イヌセンブリ」です。リンドウ科の稀少種だそうです。広島県東広島市黒瀬町の「溜め池」の周辺に咲いていたものです。

『イヌセンブリは本州・四国・九州、朝鮮・中国に分布する越年生の一年草。湿原の周辺の湿地に生育する。湿原の植生の低い場所に生育する場合には、高さ5cm程度で地面付近でいくつかに枝分かれ、やや匍匐する生育形となりやすいが、植生が高い場所では草丈30cmを超え、単幹状で立ち上がる。茎は細く、柔らかい。葉は倒被針形で、センブリに比べると幅が広い。

花は10月から11月に咲き、白地に紫色の筋が入る。イヌセンブリは苦味がないので、薬用には用いられない。口にしてみると、苦味がまったくないわけではなく、センブリの苦味がわずかにある。各地で生育数が減少していることが指摘されており、RDB種として指定されている。岡山県では準危急種。』と、ネット記事にありました。

 

 

これは、菊の一種の「スイラン」です。

『スイランは中部地方以西の本州から九州に分布する多年草。低地の湿原やその周辺、貧栄養な溜池の湖岸などに生育する。地下茎があり、長さ15~40cmほどの細長い根出葉を出す。葉の縁には不明瞭な鋸歯がまばらにあり、柔らかいがやや厚い。裏面は粉白色であり、両面無毛で切ると白い乳液がでる。9月から10月にかけ、高さ50~80cmほどの花茎を出し、分枝してその先端に頭花をつける。頭花は直径3~3.5cmで、ニガナの仲間とよく似た黄色い花を咲かせる。9月頃はまだ根出葉は残っているが、10月の終わり頃になると葉は枯れてしまい、茎の上に花だけが咲いている状態になる。

スイランの和名を漢字で書くと水蘭であろう。花を見るとキクの花であり、とても蘭とはいい難い。キク科とは思いがたい細長い葉の形から、蘭の仲間に似ているとの名前をいただいたのであろう。このような細長く直立する葉は、同じく湿原に生育するサワシロギクと同様に、スゲやイネ科草本などとの競合・共存に適合したものであろう。』と、同じ様に解説がありました。

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エンジェルトランペット

 

 

この街にやって来て、二度目に住んだ家の庭に咲いていた「エンジェルトランペット(天使のトランペット)」です。師範大学の教員住宅でした。ちょっと湿気が強かったのですが、静かな住宅で、裏戸を開けると庭があって、そこに金木犀や、名を知らない野花などが咲いていました。

隣に、小学生になったばかりの男の子がご両親とおじいちゃんと住んでいて、『爷ye!!』とおじいちゃんを呼ぶ声がいつもしていました。もう中学生になっていることでしょうね。表の庭の石の椅子とテーブルで、漢字練習に宿題をやっていて、実にしっかりした漢字を丁寧に書いてました。

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これ

 

 

『これさえあれば、他には何もいらない!』と言う《これ》が私にあります。「愛」とか、「夢」とか、も少し現実的には「お金」とかが考えられそうですが、食べ物のことで、《蜆の味噌汁》なのです。美味しい和牛とか、中トロの刺身とか、子牛肉のシチュウとか、あればうれしいのですが、空腹の私にとっては、ただ《しじみの味噌汁》と、炊きたてのご飯さえあれば、満ち足りるのです。これに二切れ、三切れの沢庵があればなおよろし、ですが。

今、こんなことを、iPadに打ち込んでいる間に、もう唾液腺が活発に働き始めてしまっています。貧乏性なのかも知れません。しかし、体が必要を覚えていて、これを要求するのでしょうか。この街にやって来て、学校で日本語を教えていた頃に、次の授業まで、時間があったので、近くの川辺を散歩していたのです。街を南北に新市街と旧市街に分けている河川でした。その川の流れの曲がった浅瀬で、何人かの人が、蜆漁をしていたのです。

今は驚くほど綺麗になったのですが、当時この川の水質はひどかったのです。そこで獲ったシジミが、市場で売られていたのでしょう、それとは知らないで、『ここにも蜆がある!』と歓喜しながら買って帰って、味噌汁にしてもらって、この街で飲んで感激していたのです。それが、この光景を目の当たりにした後の私は、二度と市場で、その蜆を買うことをやめてしまいました。

 

 

父が好きな豆腐や次兄の好きな里芋の具の味噌汁が多かったのですが、きっと母が好きだったのでしょうか、ときどき、《蜆の味噌汁》を作ってくれました。実は母の故郷は、蜆漁のメッカの「宍道湖(しんじこ)」のそばの出雲の出身ですから、ご当地特産の蜆が好きだったはずです。当時は、化学的な出汁(だし)がなく、何時も煮干しで出汁を、母がとっていたから、だから美味しかったのかも知れません。

これを弟も好きなのです。母の縁故の方が出雲にいて、夏場には、鳥取の「二十世紀梨」、暮れには「出雲蕎麦と野焼き(かまぼこ)」を、毎年送ってくれる方で、四人の兄弟全員に、そうしてくれていたのです。未だに、そうしておられるそうです。戦時中、予科練に行かれて、終戦後は、父の事業を手伝ってくれた方で、我儘な私を泣きながら、負ぶってくれた、私には恩人です。屈強の若者が泣くほど、辛いことをしてもらったわけです。この方を訪ねた時に、思いっきり 「蜆料理」を満喫してきたと、弟が言っていました。聞いただけで、垂唾(すいだ)してしまったほどです。

『よーし、今度帰国したら、思いっきり・・・』と考えている 、窓から金木犀の匂いが入り込む、華南の秋の「食いしん坊」の夕暮れです。もう十月も、来週からは下旬ですね。好い日曜日をお迎えください。

(宍道湖の蜆漁です)

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好物

 

 

「食欲の秋」と言うことで、天気も空気も好く、水も清いので、食べ物が美味しい季節になりました。お酒を飲まなかった父は、食通だったのです。結構若い頃から、《旨い物》に目がなかった様です。当時、東京神田に「登亭」という鰻屋があって、父の会社の一つが、旧国鉄の神田駅の近くのビルの中にあったので、時々食べていた様です。会社の帰りに、折り詰めにした「うなぎの蒲焼」を、子どもたちに食べさせ様と、時々買ってきてくれたことがありました。

その「蒲焼」が食べたいと、入院中の父が、私に言ったのです。それで私は神田の店に行って、美味しそうな鰻を一人前買って、父に届けたのです。そんな用を頼むことになかった父に、心の片隅で、『あれっ!』と意外に思ったのを思い出します。父の元に届けると、尻尾の方を自分が食べて、同室の病友に、頭の方の身の厚い方を上げてしまったのです。旨い方を食べずに、人に上げてしまい、その喜んでいるのを見るのが好きな、そんな父でしたから、仕方がありません。

それからしばらくした退院の日に、脳溢血を起こして、病院から天に帰って行ってしまったのです。一番の好物が、「昇亭の鰻の蒲焼」だったのでしょうか。もっと食べて欲しかったと、やはりいまだに悔やむこともあります。この父は、鰻に似た「どぜう(泥鰌)」も好きで、母の故郷の小川で、可愛がっていた若者を連れては、<泥鰌すくい>をしていたそうです。それででしょうか、泥鰌料理のメッカの「浅草の駒形」で、『準、どぜうを喰いに行こうな!』と、何度か言ってくれたのです。

私も食べず仕舞いのままでは、ちょっと寂しいので、今度帰国したら、日本橋の友人と弟を誘って、駒形辺りに行ってみようと思うのです。浅草は、東京一の繁華な街で、父の青年期の一時期を過ごした街だったかも知れません。それで老舗の駒形の「どぜう屋」を贔屓(ひいき)にしていて、息子の私に相伴(しょうばん)しようと思って、そう言ったに違いありません。

この鰻と言えば、浅草の隅田川の対岸の"スカイツリー"を案内してくれた次男が、その帰りに、浅草の鰻屋で、「鰻の蒲焼」をご馳走してくれると言って、連れて行ってくれたのです。ところが、店が休みで食べられませんでした。会社の用で、この辺りに来て、同僚と一緒に食べて、美味しかったのでしょう。それで、通りすがりの店で、何か食べて終わったのです。これも食べず仕舞いは寂しいので、何時か、きっと次男と再訪することにしましょう。(「登亭」は平成24年に閉店したそうです)

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灯火

 

 

このところ、南側のベランダの下から、馥郁と、金木犀の香りがしてきて、やっぱり秋がやってきたのだと思わされています。梅の香は、微か過ぎて、花に近寄らないと嗅ぐことができませんので、嗅ぎ損ねるのでしょうが、金木犀は、玄関を開け、この建物の外のドアーを開けて出ると、もう、そこは匂いが立ち込めています。

最高の季節の到来に、夏の暑さがすごかったせいで、有難味がより一層です。柿も、栗も、葡萄も、柚子も、蜜柑も、こんなに美味のかと、実りに満ち溢れている秋を満喫しているところです。人は嘘をつくことがありますが、自然界は正直で、人を裏切ったりはしません。ほぼ暦の通り、この土地の人の言い伝えの様に、季節が巡ってまいります。

上高地は、今頃、秋色が濃くりつつあって綺麗でしょうね。知人が、雲南省に別荘を買ったそうで、一年中同じ様な気候だそうで、避暑も避寒も最適だそうです。富裕層が、買い求めているので、『ご利用ください!』と言われても交通費だって高額だし、私たちの生活水水準からは、ちょっと無理かなあ、と思うのです。

それでも、建国以前の欧米人が夏季に使っていた避暑地が、この町の北にあります。真夏、夕刻には蜩(ひぐらし)の鳴き声がし、夜間は肌寒ささえ感じるのです。今頃行ったら、厚手の布団が必要になっていて、寒がりの私には、秋冬の夜具を持参しないと無理の様です。ベニヤ板にシーツだけの床は、過保護に育った私には無理です。

ここに来たばかりの頃、冬の夜間は、日中着ていた服を着たまま、床に着くのだと、寮生活をしている学生たちから聞いて驚きました。『はーい、寝間着に着替えて!』 と、母に言われて生活してきた私には、駄目です。やっぱり、よく沸かしたお風呂に入って、鼻唄でも歌って、のんびり入浴して、綺麗さっぱりしてから出ないと駄目なのです。

こんな無理無理、駄目駄目づくしの私ですが、大丈夫なことも、少しはあります。寝たら、寒くない限り、すぐに寝着いてしまうのです。ユダヤの格言に、「まっすぐに歩む人は、自分の寝床で休むことができる。」とあります。それでも、コーヒーを、余り飲まなくなった私は、急に飲みたくなって飲んだ夜は、なかなか寝付かれないことが、最近あるのです。運動不足もありそうですね。秋の夜長、今度の帰国には、生まれ故郷の温泉に入れることを期待し、「灯火(とうか)親しむ候」で、読書でもすることにしましょう。

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西紅柿

 

 

一年三百六十五日、欠かさずに食べている物が、私にはあります。よくも飽きもせずに食べるものだと、われながら呆れたり、感心したりするのです。こちらで生活し始めて、とくにこの華南の街に来る以前は2日に一度くらいだったでしょうか。でもこの十年以上は、毎朝励行しているのです。そう、《トマト》です。こんなに思い入れしている食べ物は、他にないのです。

スーパーマーケットや八百屋さんに行くと、まず目を向け、一直線で駆けつけるのが、山と積まれたトマト売場なのです。家に二つ三つあっても、誘惑されて買ってしまう始末です。どうして、こんなに好きになってしまったのか、自分でも分からないのです。きっと、あの《真っ赤》な色と、何とも言えない味とに魅せられてしまっているのかも知れません。作詞が荘司武、作曲が大中恩の「トマトって」の童謡があります。

トマトって
かわいい なまえだね
うえから よんでも
ト・マ・ト
したから よんでも
ト・マ・ト

トマトって
なかなか おしゃれだね
ちいさい ときには
あおいふく
おおきくなったら
あかいふく

これは、アンデス山脈の山岳の高原、ペルー原産で、メキシコに入り、それがヨーロッパに渡り、中国を経て日本に入ったそうです。それは、江戸期になっての渡来だったそうです。それで、中国では、「西红柿xihongshi/番茄fanqie」、日本では「唐柿」と呼ばれたそうです。初期には観賞用だった物が、やがて改良されて、食用になったのです。文明開化後の明治期なってから、日本人が食べ始めたのだ様です。でも本格的に食べられる様になったのは、「昭和」になってですから、《昭和の野菜》なのでしょう。

そうなんです、今朝も食べました。こちらでは卵とトマトのスープを作って飲み、生で食べることはなさそうです。でも最近は、ハンバーガーサンドに、スライスしたものが入っています。カレーにもスープにも、このトマトは使われて、わが家では《大モテ》です。留学にきている学生、教え子、家内の日本語クラスの学生、訪問客に、《トマト入りカレー》を何度作って上げたか知れません。

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あの<バーバリーの日>は、新年度の最初の日だけだった様です。あれ以来、着ている姿を見かけません。今朝登校していく小学生の服装も、いつもの通りでした。いったい1日のために、あんなにすごい<バーバリー>は、どこに行ってしまったのででょう。<タンスの肥やし>とか言われますが、「国慶節」のお祝いの前後の日にも着用した気配はありませんでした。『いったい何時着るんだろうか?』と不思議に思っている朝です。

中高と同じ制服、それは、海軍兵学校の制服似で、あの学習院の制服に似ていましが、それを着て6年間通学した私は、一度だけ、ボタンの付いた一般的な制服で通学したことがありました。ボタンは、私の学校の名の入った物で、購買部で買って、母に付け替えてもらっていました。

教師も同級生も、みんな不思議そうに見ていましたが、誰も文句を言いませんでした。校名に刻まれたボタンさえついていれば、それが制服になるわけです。襟に校章のバッジをつけるのですが、これも<◯に中・高>とある所定の物でなく、校名の二字の入ったバッジを、購買部で見つけて、襟につけていました。とにかく、変わったことをしていたのです。

学帽も、オイルを塗り込み、卵をつけてフライパンで焼き、上の部分の広がりを詰めた物に、手縫いで変装していたのです。嫌な顔をして教師に見られても、注意されませんでした。諦められていたのでしょうか。とにかく、みんなと同じでいたくない<変な奴>だったのです。

弟の絣の着物を着たり、「朴歯(ほおば)の下駄(高下駄/旧制の高校生が履いていた物です)を借りたりで、そんな格好で、平気で新宿の街を歩いたこともありました。目立ちがり屋だったのでしょう。今思い出すと、恥ずかしくなってしまうのですが、当時は得意満面でした。それって<若気の至り>と言うのでしょう。

ところが、もう、そんな元気が無くなってしまいました。周りのおじいさんの様に、白髪になり、生気が失せてきているのでしょう。それでも、《目は心の鏡》ですから、しっかり見開いて、澄んだ目でいたいと、これだけには拘りがあるのです。それは、中学生の時に決断したことでした。通学中の電車の中で、死んだ秋刀魚の目の様な、酔ったおじさんの目を見た時に、『俺はああならないぞ!』とです。

「三つ子」ならずも「中学生の魂百までも」で、"百"まで、そうあり続けたいものだと思うのです。ノーベル賞を受賞された本庶佑さんの記者会見の時の目が、《キラッ》と輝いていました。三級上の次兄と同じ学年の方です。それは、人を助けたいと思って生きている人の目の「輝き」なのです。

(久留米<かすり>の生地です)

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自分の感受性くらい

 

 

自分の感受性くらい   茨木のり子

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

反骨精神の溢れた女流詩人でしょうか、「現代詩の長女」と言われた茨木のり子の詩が面白いのです。“ウイキペディア”に次の様に、この方の経歴があります。

『大阪府大阪市生まれ、愛知県西尾市育ち。愛知県立西尾高等女学校を卒業後上京し、帝国女子医学・薬学・理学専門学校薬学部に進学する。上京後は、戦時下の動乱に巻き込まれ、空襲・飢餓などに苦しむが何とか生き抜き19歳の時に終戦を迎え、1946年9月に同校を繰り上げ卒業する。帝国劇場で上映されていたシェークスピアの喜劇「真夏の夜の夢」に感化され劇作の道を志す。「読売新聞第1回戯曲募集」で佳作に選ばれたり、自作童話2編がNHKラジオで放送されるなど童話作家・脚本家として評価される。1950年に医師である三浦安信と結婚。埼玉県所沢町(現、所沢市)に移り住む。家事のかたわら『詩学 (雑誌)』の詩学研究会という投稿欄に投稿を始める・・・』

ご自分の戦争体験を詠んだ、「わたしが一番きれいだったとき」が有名です。「作文」を、学校で教えていた時に、その教材として、私は使ったことがありました。日本の戦争責任を問う喧騒の中で、日本人も、多くを失ったことを、詩人は伝えたかったからです。同じ世代の日本女性が、戦時下と戦後に味わった体験は、こちらの学生にとっても興味津々だった様です。