あの<バーバリーの日>は、新年度の最初の日だけだった様です。あれ以来、着ている姿を見かけません。今朝登校していく小学生の服装も、いつもの通りでした。いったい1日のために、あんなにすごい<バーバリー>は、どこに行ってしまったのででょう。<タンスの肥やし>とか言われますが、「国慶節」のお祝いの前後の日にも着用した気配はありませんでした。『いったい何時着るんだろうか?』と不思議に思っている朝です。

中高と同じ制服、それは、海軍兵学校の制服似で、あの学習院の制服に似ていましが、それを着て6年間通学した私は、一度だけ、ボタンの付いた一般的な制服で通学したことがありました。ボタンは、私の学校の名の入った物で、購買部で買って、母に付け替えてもらっていました。

教師も同級生も、みんな不思議そうに見ていましたが、誰も文句を言いませんでした。校名に刻まれたボタンさえついていれば、それが制服になるわけです。襟に校章のバッジをつけるのですが、これも<◯に中・高>とある所定の物でなく、校名の二字の入ったバッジを、購買部で見つけて、襟につけていました。とにかく、変わったことをしていたのです。

学帽も、オイルを塗り込み、卵をつけてフライパンで焼き、上の部分の広がりを詰めた物に、手縫いで変装していたのです。嫌な顔をして教師に見られても、注意されませんでした。諦められていたのでしょうか。とにかく、みんなと同じでいたくない<変な奴>だったのです。

弟の絣の着物を着たり、「朴歯(ほおば)の下駄(高下駄/旧制の高校生が履いていた物です)を借りたりで、そんな格好で、平気で新宿の街を歩いたこともありました。目立ちがり屋だったのでしょう。今思い出すと、恥ずかしくなってしまうのですが、当時は得意満面でした。それって<若気の至り>と言うのでしょう。

ところが、もう、そんな元気が無くなってしまいました。周りのおじいさんの様に、白髪になり、生気が失せてきているのでしょう。それでも、《目は心の鏡》ですから、しっかり見開いて、澄んだ目でいたいと、これだけには拘りがあるのです。それは、中学生の時に決断したことでした。通学中の電車の中で、死んだ秋刀魚の目の様な、酔ったおじさんの目を見た時に、『俺はああならないぞ!』とです。

「三つ子」ならずも「中学生の魂百までも」で、"百"まで、そうあり続けたいものだと思うのです。ノーベル賞を受賞された本庶佑さんの記者会見の時の目が、《キラッ》と輝いていました。三級上の次兄と同じ学年の方です。それは、人を助けたいと思って生きている人の目の「輝き」なのです。

(久留米<かすり>の生地です)

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