避難所

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今では選ばれることがなくなったのですが、「健康優良児」が、かつていました。体格が良くて健康で、様々な能力に優れた子どもが、選ばれていました。小学校の同級生にも、「頭一つ」誰よりも大きくて、実に健康だった「大野君」がいました。顔色はいいし、頬っぺもふくよかで、性格もよくて《理想的な小学生》でした。その真反対の<病欠児童>の私は、そんな彼の側にいたくなかったのです。今、どんなお爺ちゃんになっているのか、会ってみたいものです。

ですから、そんな貧弱な私には、「健康優良児」を、心の中で喜べなかったのです。スパルタの街やナチス政権下での<優秀でなかった子ども>の気持ちがよく分かるのです。臍曲がりの私は、1930年に、「日本一の桃太郎」を探し始め、人間の価値は、体格や知的や運動能力では測れないと言って、1978年に廃止されるまでに選ばれた、「優良児」を追跡調査してみたら面白いのではと思うのです。桃太郎の晩年も。

大学に入った年の学校で、健康検査が行われた時、上半身裸の私を見た医師が、『君は好い体をしてるなあ!』と言ってくれたのです。それは、《病弱児童》だった私への、《病弱宣告終了》だったのです。転校して来て、欠席の多い私を、授業中に褒めてくれ「内山先生」と、この医師とは、私にとって忘れられない人たちです。

もう一人、親としても、社会人として、時として疲れて意気消沈していた私を、家族ごと呼んでくれ、激励してくれたアメリカ人起業家がいました。この方の5人のお子さんが、私と家内と4人の子どものために、自分たち部屋を提供して、3日ほど、その家で過ごさせてくれたのです。そんなことが3回ほどあったでしょうか。あの方がいて、あの日々があって、そんな「避難所」があったので、今の私たちがあるのだと感謝しているのです。

彼は召されたのですが、奥様はアメリカで、上のお嬢さんの家で過ごされていて、その他のお子さんたちは、お父様の志を継いで、日本やアメリカでお仕事をされておられます。彼らも、時々、私たち夫婦を招いてくれ、親子二代の交流が続いています。もちろん私の子どもたちも、彼らがお世話くださって今日があります。

つくづく思うのですが、「健康優良児」でなくても、《起死回生》で健康が恢復されたり、激励されて生きることができるのだと、心から感謝してるところです。叱ってくれた教師や大人の顔が思い出されます。昨日は、家出をして4日も家を空けている、14歳になる息子の事で、一人のお母さんが、わが家にやって来ました。家内が、かつて流していた涙を、このお母さんも流していました。将来、彼のおばあちゃんが住もうとして購入した家に、彼が避難所として隠れていたと、夕べ夜中に電話がありました。

彼だって、生きる権利、親や社会に反抗する反発力があって好いのでしょう。そうやって、人は大人になっていき、人の一生は多様なのです。親の都合によってではなく、一人一人の子どもの持った個性で生きて行ったら好いのでしょう。私の両親が、もしここにいたら、そんなことを思ったり、彼のお母さんと話をしてるのを見ていたら、<苦笑い>をして、『信じられないなあ!』と言うことでしょう。

(北海道の洞爺湖に昇る日の出です)
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