愚直

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「偏屈」とか「愚直」と言ったことが、時代の流行や進展に逆流するように思われています。こう言った言葉は、明治や大正、さらには昭和一桁世代を匂わせる、かび臭い事だとでも思われてている様です。それで、『昔にこだわり過ぎていて、進歩のない証拠だ!』と言って、若者たちから嫌われてしまうのです。確かに、昔は、時間の動きが緩やかでした。江戸から京都に旅をしても、自動車も新幹線もなかったのですから、歩くか、裕福な人が籠や馬や舟に乗るかだったわけですから、人の動きものんびり、ゆったりとしていたことになります。

時間も人の動きも緩慢な時代でしたから、急かされることなどありせんでした。かえって観察眼は鋭かったのではないでしょうか。芭蕉が、「奥の細道」に紀行の様子を記していますが、歩行者ならではの観察眼で眺めた事ごとが、そこに記されてあります。実に緻密に景色や人心の機微を眺めて看て取っています。以前、家内と新潟の上越に行った時、佐渡に目を向けて、芭蕉の読んだ俳句、『荒海や佐渡によことう天の川』を思い出していました。そんな発想は、何処から来るのだろうかと思うこと仕切りでした。俳聖と呼ばれる人でなければ、表現し得ないに違いありません。別な意味では、時間が、のたりのたりと流れていた時代の産物なのかも知れません。

これまで、どの道の《達人》も、滅入ってしまいそうな、長い下積み時代を過ごさなければなりませんでした。仕事場の片付けだとか、明日の準備だとか、先輩たちの下仕事をしなければならない時代だったのです。その積み上げられた、無駄のような時間や作業の間に、培われた何かが、そういった達人たちの職人としての高い質を作り上げてきたのです。

私たちの住む街に、アメリカ系のスーパーマーケットがあります。そこに、「鰻の蒲焼」が売られているのです。ちょっと値段が高くて、一年に一度ほど買ってしまうのですが、日本の物と、見ためも味も遜色がないのです。串焼きではありませんが、日本風の仕込みがなされています。この「鰻職人」は、『串差し三年!』と言った時代を経て、初めて焼き職人になれるのだと言われてきました。その修行を、後輩いじめのように取る方がいますが、『たかが鰻、されど鰻!』なのです。その道その道に、練達者に至る道は遠くて、険しいわけです。

ところが、現代は、「即性栽培のモヤシ」のように、一夜漬けの漬物のように、瞬時のうちに大成してしまう人がいます。松下幸之助や本田宗一郎のように、研鑽と努力によって、町の並みの商店主から身を起こしたのとは全く違うのです。そういった彼らの「愚直な努力」、「偏屈なこだわり」を、この時代の若者は『無駄だ!』と退けてしまうのです。そして、下積みなしで、数秒の間に、一人のサラリーマンの一生涯の収入の何百倍もの資金を手に入れてしまうのです。

日本の社会を安全に支えてきたのが、『愚直の努力です!』と、畑村洋太郎さん(「失敗学」の学者です)が、以前、ラジオで言っていました。小学校や中学を出て、生涯かけて、単純な作業をし続けてきた方々の、「愚直の努力」が、事故や災害や失敗を最小限にとどめて来たのだそうです。そうして来た彼らが職場から去ってしまった後、大きな人災事故が発生している様です。多くの先人が、「忍耐」や「自制」や「待つこと」を勧めています。これらは、時代錯誤なのでしょうか。芭蕉は、旅行中に、私たちが好んで食べる「鰻重」を食べたのでしょうか。

いよいよ弥生三月になりました。身も心もウキウキする様な季節の到来です。多くの人にとって、身辺の変化の時ですね。好い導きがあります様に願っております。
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