生きよ

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今、大韓民国の平昌で、「冬季パラリンピック」が開催中です。体が不自由なみなさんが、とくにスポーツの世界で活躍する姿を見るのは、素晴らしい感動を覚えます。この「パラリンピック」について思い出す事があります。

1964年10月、「東京オリンピック大会」の最終日に、マラソンが行われました。主会場の東京陸上競技場から、「国道20号線(甲州街道)」の調布の折り返し点を往復して行われたレースで、ローマ大会に次いで二連覇で優勝を果したのが、エチオピアのアベベ・ビキラ選手でした。そして3位に入ったのが、自衛隊体育学校の円谷幸吉選手(二等陸尉)でした。両者とも素晴らしい走りを見せ、その盛り上がりは素晴らしいものでした。

この両選手は、次の「メキシコ大会」に向けて準備に余念ありませんでした。ところが体調が思わしくなく、過重な期待感とで精神的に押しつぶされた円谷選手は、メキシコオリンピックの直前に自死してしまいます。私の兄と同年の生まれでしたが、彼の書き残した遺書には泣かされてしまいました。死なないで、後進の指導をして欲しかったので、残念で仕方がありませんでした。

一方、アベベ選手は、メキシコ大会のマラソンに出場しましたが、途中で棄権してしまい、三連覇は果たせませんでした。この大会の半年後に、自動車運転中に事故に遭って、頚椎損傷の重傷を負って、選手生命を奪われてしまいます。親衛隊の衛士であった彼は、8ヶもの入院治療とリハビリから立ち上がり、1971年に、ノルウェーで開催された、「身障者スポーツ週間」の《犬ぞりレース》に参加して優勝を果たしたのです。ところが、1973年10月に、脳出血により病死してしまいます。まだ41歳の若さでした。

この障害を負うという願わない経験の中で、不屈の魂、スポーツ魂が、アベベ選手にあった様に、円谷選手にもあったらと思ってしまうのです。必ず人は死ぬのですから、死に急ぐ必要はないのです。水野源三は、《瞬きの詩人》と言われ、生きている人を激励する多くの詩を残しました。お母さんが、お母さん亡き後は義姉が、五十音表の文字を指すと、《瞬き》で源三が告げて書くと言った方法で詩作したのです。

『死にたい!』と願ってしまう辛い経験は、誰にでもあるのです。『死ぬな!』と、私の愛読書にあります。障碍や失敗、そして恥でさえ負いながらでも、人は生きなければならないのです。失ったものを数える思いから、残された素晴らしきものを数えたら、そこには結構あるのではないでしょうか。『生きよ!』とも愛読書にあります。

ピョンチャン冬季パラリンピックで、参加選手の精一杯の活躍を、地続きの大陸の南方から、願って応援しています。加油(jiayou/頑張って)!

(アルペンスキースーパー複合女子座位で銅メダルを獲得した村岡桃佳選手、円谷幸吉選手の出身地の福島県須賀川市の市花の「牡丹(ぼたん)」です)
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