まだあげ初(そ)めし前髪の
林檎(りんご)のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の
花ある君と思ひけり
やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅(うすくれなゐ)の秋の実に
人こひ初めしはじめなり
わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情(なさけ)に酌(く)みしかな
林檎畑の樹(こ)の下(した)に
おのづからなる細道は
誰(た)が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ
女性を意識し始めたのは、『何時頃だろうか?』と思い巡らしてみました。男ばかりの兄弟で、従姉妹もいなかった私にとって、兄の同級生で、「お姉さん」の様に接してくれた方が、その方でしょうか。耳が痛くなった私を、街の北の方にあった耳鼻科に、このお姉さんが、母に代わって連れて行ってくれたのです。自転車の荷台に、またがらせて乗せてくれ、お姉さんの運転ででした。
このお姉さんの腰に手を回して、しっかりとつかまっていたのです。自分の手で、<女性の体>に触れた最初の経験で、それを鮮明に覚えているのです。耳が痛いのに、その<痛み>を忘れさせてしまうほど、"いい気持ち" を感じていた、ちょっとオマセな小一の私でした。この歳になっても、あの時の感情と手の感触を思い出させてくれる、淡くて幼く、ちょっと怪しい《恋心》です。と言うか、お姉さんを求める《願望》だったのでしょうか。
その後、《ジェンダー(性意識への願いのことでしょうか)》の時期に入って、女性への関心は、性的なものに変化して行くのですが。藤村が詠む、「恋の盃」と言うには幼な過ぎる時から、心理的にも社会的にも成長して思春期に突入するのでしょう。中学の時に、女子部の高三の先輩に(中高と別学でしたが、バスケットボール部は大会参戦の遠征などで交流があったのです)、声を掛けられて、"いい気持ち"になって、憧れたのは、まさに思春期に突入の頃、「人こひ初めしはじめなり」でした。
大人になるのに、《失うもの》が沢山ありますが、《得るもの》もまた多くあるわけです。娘から時々、孫たちの写真が送られてきますが、もう子どもではなくなりつつある様です。そろそろ<思春期>に入るのでしょうか。正常に突入して、大人への階段を正しく昇って欲しいものだと願わされております。
(弘前市のりんご園の林檎の花です)
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