国姓爺

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中国の南方に、「泉州(quanzhou)」と言う、かつて海外貿易で栄えた港町があります。ここに教え子がいて、招かれて訪ねた事がありました。お父さんが、市内を案内してくださって、その貿易で使った巨大な木造船の骨組みが、記念館に残されていたり、イスラムの寺院があったり、かつて貿易港として繁栄した名残を感じさせられたのです。

その時、市内を見下ろす小高い丘の上に連れて行っていただき、巨大な銅像を見上げたのです。それは、馬上に跨る「鄭成功(ていせいこう)」の勇姿でした。馬の上から、台湾本島を望み見ている姿なのです。明朝から清朝にかけて活躍した武将で、台湾でも、未だに尊敬され続けている人物です。

この成功は、近松門左衛門の「国姓爺合戦(こくせんやがっせん)」の人形浄瑠璃や歌舞伎で演じられる人物でもあるのです。1624年に、中国福建省の貿易商・鄭芝龍を父に、長崎の平戸の生まれの母・田川マツから、母の故郷の「平戸」で生まれています。幼名を福松・鄭成功は、7歳の時に、単身で海を渡って、父の祖国を訪ねています。21歳の時に、明の隆武帝より、明王朝の国姓である「朱」をもらっています。それで、人々は彼を「国姓爺/この「爺」は尊称です」と呼んだのです。

父親は、清に投降しますが、成功は「抗清復明」の立場を死守して、清と戦います。戦いが不利になって、彼は台湾に渡ります。そこで台湾を支配していたオランダ人を追放するのです。台湾の金門島に、本拠地を置き、政府を興し、法律を定め、耕地の開拓を行い、台湾の人々に尽くすのです。大陸での戦いの最中、泉州に、移り住んでいたお母さんは、泉州城が陥落する時に、敵に降伏することなく、泉州城内で自刃して、日本女性の心意気を示したと伝えられています。

1662年に、39才の若さで、鄭成功は病没しています。ですから、台湾の人々は、彼の功績を忘れずに今もいる様です。中日双方の血を引く鄭成功は、良好な日中関係を期す双方にとって、今も高い評価を得ているのです。歌舞伎で見た事はありませんが、人としても武人としても、あの丘の上の銅像の様に、大きな人物であった様です。

誇らしく、教え子のお父さんが、この鄭成功の武勇伝を話してくれたのです。金門島は、泉州の隣り町の「厦門xiamen/アモイ」から、高速船で30分、今は台湾領になっています。もう凌霄花(ノウゼンカズラ)が、一足も二足も早く咲いています。海を隔てていますが、日本と中国の交流の歴史は長い事が分かるのです。

(鄭成功の直筆の書、泉州の丘の上の「鄭成功」の銅像です)
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