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子どもの頃、私は、「無線通信士」になりたかったのです。父の机の上に、モールス信号の送信機(電鍵)があって、それで遊んでいるうちに、そんな願いを持ち始めていたのです。でも戦後、上京後の父は会社勤め、というよりは会社経営の一端を担っていました。学校を出た兄たちは、それぞれに会社員になっていました。私は、会社で働くことに魅力を感じなかったのです。
それで、「教師」になろうと願ったのです。だからといって、教員養成の教育学部に学んだわけではなったのですが。多分に問題児童だった私が、そのような願いを持つことは意外なことだったに違いありません。なぜそのような願いを持ったのかと言うと、小学校の頃の「遠足」に由来しているのです。
学校行事の「遠足」は楽しかったのです。狭い教室で学習をしなでよかったし、知らない土地に電車やバスに乗って行けるし、母は普段と違う弁当を持たせてくれてたからです。小学生の頃、「潮干狩り」に、千葉の谷津遊園に行きました。雨降りの日でした。その日の天気も覚えているのです。学校で勉強をしていた時の記憶と言うのは、ほとんど覚えてないのが悔しいのですが。
必死になって、小さな熊手で、アサリを取ったのです。家に持ち帰って、それを母が味噌汁にしてくれましたから、胃袋でも覚えていたことになります。だからと言って、いつも飢えていたのではありません。父は東京のど真ん中に、電車通勤をして、いくつかの会社にかかわっていたのです。育った町では、まだ、ケーキやソフトクリームなど売っていませんでしたが、父は、時々、買って持ち帰ってくれました。ドライアイスがあることは、冷たいソフトクリームをほおばって始めて知ることが出来たのです。美味しかった、父親と美味しさとが一緒に思い出されるのです。
さて、潮干狩りが一段落して、お弁当の時間になりました。わいわいがやがやと美味しく食べていたのです。すると、醤油と貝が焼かれているけむりと匂いが、砂浜で弁当を開いている、我々の所に漂ってきたのです。なんと、どこかに消えてしまった先生たちだけが、よしずの小屋の中で、「サザエの壺焼き」を食べてるではありませんか。『ずるい!』と思ったのです。でも、実に羨ましかったのです。
『先生っていいな!あんなに美味しいものを食べさせてもらえるんだ!』、それは、強烈な印象でした。それで、『俺も先生になるんだ!』と、本気で思ったのです。それは、嗅覚と食欲を刺激されたからでした。ところが、教員は給料が安いのを知らなかったのですね。中学校の担任が、ツルツルとテカった背広を着ていたのを覚えています。この先生が、地理や歴史などを教えてくれました。教師陣唯一の東大出でした。
とても楽しく社会科学習をさせてもらって、社会科が大好きだった私は、『社会科の教師になりたい!』と願ったのです。その願いが、何と叶ったのです。都合5年、教育畑にいることが出来ました。「食欲」に誘発された動機の不純な教師の私に、教えられた学生たちは迷惑なことだったでしょうね。
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