拙者

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東京日本橋に、「室町(むろまち)」という一角があります。昭和初期までは「按針町(あんじんまち)」と呼ばれていて、江戸初期に「三浦按針」が住んでいたので、そう呼ばれていたのです。この人は、徳川家康に重んじられて、名字帯刀を許され、「旗本」に取り立てられたほどの人物で、国籍はイギリス、名前は"ウイリアム・アダムズ"でした。船の航海士として、豊後国臼杵(ぶんごのくにうすき)に、彼が漂着したのが、1600年の事でした。

家康が興味をもって江戸に招き、当時の国際情勢や造船・航海術、天文学や数学等の見識を、高く評価されたのです。その功績で、相模国(現在の神奈川県横須賀市)に領地を与えられ、江戸には、邸宅(屋敷)が与えられています。対外的な制限が加えられる以前、家康は、海外に関心を向けていて、そのまま交易や文化交流が続けられていたら、日本の歴史は大きく変わっていた事でしょう。しかし徳川二代、三代将軍によって、その制限が強化され、230年の間、日本は内に籠ってしまったのです。

船の設計士でもあった彼の技量を知った家康は、伊豆の伊東で、「帆船(はんせん/帆をつけた船です)」の建造を要請し、日本最初の造船所が、その伊東にあったのです。「浦賀(横須賀)」では、スペインなどとの交易も行われ、按針が貢献しています。さらに平戸には、対英貿易の商館(後に「長崎・出島」に移管されます)があって、これにも按針が関わっています。按針は、1620年に55才で、この平戸で亡くなり、葬られています。

家康に帰国を願い続けながら、それが許されずに、按針が日本で没してしまったのは、やはり数奇な一生をたどった事になります。この室町(按針町)に、父の会社があって、何かを届けるために、小・中学校の頃に、二度ほど行ったことがありました。三越日本橋店の近くにあって、東京のビジネス街の一角だったのです。その頃、按針を知っていたら、日本の歴史を、もっと身近に感じられていた事でしょう。

中国人の友人の「老家laojia/故郷」が、内陸部にあって、そこには百五十年も前に、欧米人が訪ねて来ていて、医療や文化などの面で、大変助けてもらった過去があると、話していました。ここ中国も、徳川時代と同じ時期が、「清朝」であって、孫中山(孫文)による「辛亥革命(しんがいかくめい)」が起こるまで、国を閉ざしていたのです。

同じ様な歴史をたどってきた中日両国には、似た背景が、多くある様です。こちらに来たばかりの頃、街角で、女の子たちが、「ゴム跳び」をしているのを見かけて、《子ども遊び》も、結構似ているのを感じたものですが、昨今は、"Game"の全盛で、《外遊び》を見かける事がなくなってしまっています。むかしは、こちらでも、きっと稲刈りを終えた田圃や街角や村外れで、子どもたちの声が聞こえていた事でしょう。臼杵や平戸や横須賀や日本橋で、そう言った子どもたちの姿が見られたのでしょう。アダムズは、『拙者(せっしゃ)は三浦でござる!』と言ってたのでしょうか。

(横須賀の観音崎です)
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