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こちらでの生活が、思いの外に長くなって、すっかり適応し、習慣化してしまって、何か外国に住んでいる様な意識が少なくなってきている自分に、時として驚かされる事があります。電気やガスや水道、バスや電車などの交通、毎日の食事、友人や訪問客、そして倶楽部や住む家など、何不自由なく備えられて、快適に過ごせている事に、大変感謝しているところです。
間もなく「春節」が始まり、何億という人たちが移動をされるそうです。知人たちも、それも何組ものご家族にが日本旅行、とりわけ「北海道旅行」に出掛けるのだそうです。そのお目当は、「札幌雪祭り」だそうです。東京や京都を巡り歩いたみなさんが、次に目指すのは、「北の大地」の様です。中国の東北のハルピンでも、氷の芸術作品が見られるのですが、異国の景観に興味があるのでしょう。
かつては、「蝦夷(えみし/えぞ)の地」、北の大地は、大和朝廷が、そう呼んで名付けられたそうです。源頼朝が、朝廷から「征夷大将軍」に任じられたのですが、その「夷」は、辺境の異民族の事を表し、「尊皇攘夷」にも「夷」という字が使われています。蔑んだ意味がある様です。その「蝦夷」が、1869年に「北海道」と命名されています。この名付け親は探検家の松浦武四郎だそうです。
この松浦は、先住民のアイヌにみなさんの助けで、蝦夷地を何度も調査しています。よく探検家が、原住民と同じような生活をしながら、様々な調査をしてきた様に、この松浦も、アイヌの人々と寝食を共にしながら、6回もの調査をしたそうです。アイヌの人々の信頼を勝ち取った松浦は、アイヌの長老から、多くの事を学んでいます。
その長老に聞いた「北加伊道」、「カイ」と言うのは、「この地で生まれたもの」というアイヌ語だそうです。その発音を「海」にして、「北海道」とした訳です。先住民のアイヌの人々は、内地人から差別されたり、搾取されたり、追われたりした過去があります。松浦は、そう言ったアイヌのために、様々に彼らの立場を擁護した人だった方だそうです。
昨年、札幌の病院に入院していたときに、同室になった方から、「オホーツク文化」が、樺太、カムチャッカ、鴨緑江(アムール川)を経て、大陸から伝えられ、その流れに「アイヌ文化」があったと聞いたのです。その遺跡が、網走市の網走川河口(「モヨロ貝塚」が有名です)や北見市や紋別市など、北海道のあちこちにある事も知らされたのです。悠久の歴史を刻んだのも、「北海道」の特徴であり、興味が尽きません。
その寒冷地に人が住みついて、文化を育んだ事を知って、今年の様に寒い冬を経験すると、どんなにしてオホーツク人が暖をとって、酷寒の冬を過ごしたのか心配になってきます。子どもの時期に、開拓民たちは、雪を被りながら寝ていたという話を聞かされて、もう春になった札幌で、桜の花が咲いていた頃でしたが、寒がりの私は震えてしまいました。それにしても、今季は寒い!
(オホーツク人も見た網走の景観です)
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