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「三波春夫」、若い方は知らないのでしょうけど、私たちの世代では、「歌謡浪曲」という芸能界で活躍した歌手で、よくラジオでもテレビでも、この方の歌を聞くことができました。矢張り、時代物、股旅物が多かったでしょうか。とくに、ご婦人層の絶大な支持を得ていたと聞いています。1964年開催の「東京オリンピック大会」や、1970年開催の「大阪万博」でも、《テーマソング》を、この方が歌ったのです。『こんにちは、こんにちは・・・』と歌い出していました。
この方のことを、以前、聞いたのです。あんなに上手で美声の持ち主だったのに、片方の耳の聴力がなかったのです。浪曲師や歌手にとって、それは致命的な欠陥だったのですが、それを隠し通して、浪曲調の歌謡曲を歌っておられたのです。ご本人と奥様だけの秘密で、それを守り通して、歌謡の世界で、引退するまで活躍されたのです。
世の中、意外と隠れたところに、問題、障害、欠陥、不足があって、それぞれが、そう言ったものを抱えながら生きているのです。それは個人の事だけではなく、家族、学校、会社、自治体、国家にもある事なのでしょう。要は、それをバネにして、残された《好きもの》を磨き、鍛え、整えながら生きることに違いありません。
優れた政治家一家のケネディ家には、優秀な息子たちの他に、障碍を負っていた娘がいたと言われています。実業家の父親は、それを<家族の恥>として、ひたすら隠し続けたのです。大統領を出そうとする家系に、そういった障碍を持つ子を欲しなかったからです。ジョン・F・ケネディの大統領就任式で、『・・・世界の友人たちよ。アメリカが諸君のために何を為すかを問うのではなく、人類の自由のためにともに何が出来るかを問うてほしい。・・・最後に、アメリカ国民、そして世界の市民よ、私達が諸君に求めることと同じだけの高い水準の強さと犠牲を私達に求めて欲し
い・・・』と言っていました。彼は、自分の妹のために、何をもとめて、して上げたのでしょうか。自分の病気も隠して生きたのですが、死後に、全てが白日の元に晒されたのです。
ところが、"ソニー"の創業者の井深大は、障碍を持った自分の娘を隠そうとしませんでいた。また見世物の様に、<広告塔>にすることもありませんでした。『多恵子は、十字架であるとともに、生涯の光です!』と言っています。経営者として、健常者だけではなく、障碍を持った方たちに雇用の機会を開き、そうの方が働くことのできる工場を建設し、そこでも操業をしていました。
"SONY"の名を刻した《カセット・テープレコーダー》を、新発売にあたって、購買予約をして買って使いました。《優れもの》でした。自分の願いや選び取りで得ることのできない事や物、決して願わないものが与えられ、備えられたら、それをありのままに受け入れて生きることに、私はしたのです。私の母が、自分が産んだ三男の私に、自慢していた一つの事がありました。体に傷がなく、脚がすらっとしてる事だったそうで、そんな事を二、三度、私に言ったことがありました。ところが自分は頭や唇や耳の格好が、子ども頃に嫌いでしたし、小刀や喧嘩で、身に多くの怪我を負ってしまいました。
もうこの年になると、どうでもいい事なのですが、子どもの頃には、誰もが自分の足りなさに悩むのでしょうか。両親、兄弟たち、家内、子どもたち、そしてこの自分も、みんな造物者からの頂きものです。すべて最善だという事で、足りなさは《謙る》ために、良きものは《感謝》するための《天賦》なのです。三波春夫は、痛み、疲れ、意気阻喪した日本人に、舞台やテレビから、しばしの娯楽を与えたのです。自分にも<痛み>があったからではないでしょうか。
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