純情

 1936年(昭和11年)には、「二・二六事件」が起こり、ベルリンで「第6回オリンピック」が行われ、アジアでもヨーロッパでも戦争の足音が高まって、世界が飲み込まれようとしている前夜のようでした。この年に、佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲、藤山一郎歌った、「男の純情」という歌が流行りました。

男いのちの 純情は
燃えてかがやく 金の星
夜の都の 大空に
曇る涙を 誰が知ろ

影はやくざに やつれても
訊いてくれるな この胸を
所詮男の 行く道は
なんで女が 知るものか

暗い夜空が 明けたなら
若いみどりの 朝風に
金もいらなきゃ 名もいらぬ
愛の古巣へ 帰ろうよ

 まだ生まれていない時の歌ですが、「純情」という言葉に惹かれて、この歌が大好きでした。勇猛果敢な「男気」が求められてる時代の只中に、「純情」な男の心が謳われて、一世を風靡したというのも、軍国化していく前夜なればこそ、許された歌謡曲だったのでしょうか。

 私の愛読書に中に、『男は、こうであってって欲しい!』と言って、『純真な心を奮い立たせよ!』、『純真な者となれ!』とあります。生まれてから、私の少年期や青年期には、『男は勇気、剛気、覇気がないといけない!』と言われて、学校でも運動部でも、上級生や先輩たちにハッパをかけられて生きてきたのです。しかも教師からもビンタを食わされて、規律を学ばされました。〈剛毅さ〉こそが、男の心や身につけなかればならないことだったのです。だから、巻藁に拳を打ち付けて、空手の練習をしたり、河原で大声を上げて、喉を鍛えたりもしました。

 この歌は一見、軟弱な男の歌のように思えますが、真の男の心には、〈優しさ〉も〈思いやり〉も必要なのだと歌うのでしょう。『金もいらなきゃ 名もいらぬ』との文句に、真の男の意気を感じてならないのです。多くの男が、〈金〉のためには手段を選ばないで得ようとするエゴを生きているのを見て、『俺は金に生きない!』と心の中で決めました。また多くの男が、「寄らば大樹の陰」と言って、尻尾を振りながら、名のある人のもとにすり寄って生きてる姿を見て、『俺は名のために真(まこと)を売らない!』と決心したのです。

 「男の純情」を好む、そんな主義主張のためでしょうか、金も名も家も財産もないまま、私は今日を迎えてしまいました。『老後のために蓄えをしなさい!』とたびたび、ある人たちに言われました。しかし、私に、〈真の男の生きる道〉を諭してくれた師たちは、妻や子たちに、何一つ残さないで逝きました。自分の墓さえも持たないで、共同墓地に埋葬されました。こういった生き方は、失敗者の最後なのでしょうか。いいえ、彼らの掲げた〈夢〉や〈理想〉や〈幻〉は、今も私の心の思いの中に、輝きながら生き続けています。明日は明日自身が思い煩うのですから、今日を満ち足りで生きていこう、そう決心している、「長月(夜長月)」の「白露(はくろ)」の宵であります。

(写真は、白露の頃、初秋のニューヨークの池の様子です)

内弁慶

 『お前は〈内弁慶〉だ!』と、よく父に言われました。「内弁慶」を、yahooの辞書で調べてみますと、『[名・形動]家の中ではいばりちらすが、外では意気地のないこと。また、そのさまや、そういう人。陰弁慶。「―な子供」 』とあります。私は、家の中では、兄たちよりも威張ってるけど、外に出ると、からっきし元気がなかったからです。就学前に肺炎にかかり、街の国立病院に入院し、死ぬ様は重症の中から生き返ったからでしょうか、父や母に甘やかされたのです。小学校の入学式にも出られませんでしたし、3年生頃までは、欠席が多かったのです。そんなことで、家の中にいることが多く、病弱な子であるというので過保護にされ、父の特愛の子だったのです。それでも父からは拳骨を食わされたこともありましたが、まあ我が世の春でした。父が味方だったからです。

 それでも4年生になって元気になってからは、体育の時間には、『廣田、跳んでみろ!』と言われて試技を演じるほどになったのです。クラスの遊びのリーダーになったりしましたが、みんなのことを考える余力がなかったので、三日天下だったのですが。そんな我が儘な私を、兄たちがからかったのです。味の素という食品が出てきた時に、〈アジノモト〉と言えないで、〈あじももと〉としか言えない、舌っ足らずだったのです。そんな劣等感に苛まれたり、複雑な心の動きで、引っ込み思案になっていました。

 中学には、兄たちが街の中学に行ったのに、私は電車通学の私立中学に通わせてもらいました。特別扱いだったのです。入学して間もなく、担任が私に、『廣田くん、電車通学で隣りに座ってるおじさんに、話しかけてごらん。きっと何か学べるから!』と言われて、素直な私は、それを実行していったのです。社会性が育っていなかったのでしょうか、そんなことを切掛に、積極的な生き方が身についてきたのでしょう。

 今回の船旅の乗船客を眺めていますと、独りポツネンとしている人が意外といらっしゃるのですね。そういった方は、他を受け付けないで、拒んでいる雰囲気が立ち込めているのです。それで、無理に話しかけるように、日頃しているのですが。奈良の大学を卒業し、故郷でアルバイトをした学生に話しかけました。佐渡の出身だとのことで、寡黙な青年でした。聞き出しますと、一生懸命に、自分の夢を語ってくれました。『これから1年、中国語を学び、日本に帰ってきたら、大学院に行って、専攻を学び続けようと思っています!』と言っていました。彼の将来をはげまして、上海で別れました。

 大阪の地下鉄に乗っても、甲子園に行くにも、中学の担任が勧めてくれたことを、〈三つ子の魂百までも〉で、まだ実行している、いえもう、それが私の生き方になっているのかも知れません。一人ひとりは、生まれてきた環境も、育った情況も違い、多種多様な生き方をしてきたわけです。違っていていいのですが、交わりを通して、自分を語り出す時、何かほっとしたものを感じるのです。二度と会わないような方と、しばらくの時と場所を同じにして、語り合うときに、たくさんのことを学ぶことができるようです。

 ゆっくり父とも母とも話し合うことが少なかったと思うのです。山陰の出の母は、じっと泣き言を言わないで生きた女性でしたし、男の子の私たち四人には、語りたくても語れなかったのかも知れません。父にしろ、『男は黙っていて、多くをしゃべるな!』と、昔気質の男でしたから。機会が少なかったのかも知れません。そんな時を持たないまま独立して、家庭を持ってしまったからでしょうか。そんなことを思い返して、父が語った言葉や、母の話してくれた少しの記憶を思い出そうとしております。

 そういえば、私の四人の子どもたちとも、膝を付き合わせて、ゆっくり話すことが少なかったのを思い出します。まあ、『話そうよ!』と言って話せるものではないのですが、話さなくても分かり合えることもあるのかも知れませんね。

(写真は、勧進帳の「武蔵坊弁慶」の像です)

祖国のある幸い

 「爪弾き(つまはじき)」という言葉があります。gooの辞書で調べますと、『[名](スル) 1 人さし指や中指を親指の腹に当て、強くはじくこと。嫌悪・軽蔑・非難などの気持ちを表すしぐさ。 2 ある人を忌みきらって排斥すること。「同僚から―される」』とあります。「いじめ」に通じる言葉のようで、これは日本にだけ見られる社会現象ではなく、ほとんどの国で、今、起こっていて、なかなか対策を講じられない複雑な社会問題のようです。

 「流浪の民」と呼ばれた民族があります。国が消滅して、地上に自分の祖国とか母国と呼ぶことのできる国がなくなってしまった人たちのことです。それで世界中を流浪して、根無し草のように生きるのです。私たちの国でも、《逃散》ということで村を追われたり、自分の意志で、先祖伝来の地を出たりして、人里離れた山奥などで生活をし始めた人たちがいました。「穢多(えた)」とか「非人」とか「賤民」と呼ばれて、差別された人たちのことで、無戸籍である以外は、私たちと全く変わらない方たちなのです。自分たちをまともな人間だと思っている人が、忌み嫌う仕事に従事することで、生きてきた人たちでした。ですから職業蔑視も、こんなところから生まれてきているようです。《自分たちと違うもの(者、物)》を受け入れられない偏狭な考え方が、こういった差別や区別を生んできたことになります。

 私は会ったことはないのですが、ヨーロッパを流浪して旅をする《ジプシー》と呼ばれた人たちがいました。今もいるのでしょうか。ギターを奏でて歌い、踊りを舞って生活をしていました。あの悪名高きナチスが、「ユダヤ人」と共に、絶滅宣言をしようとしたことで、よく知られています。

 こういったことが、なぜ起きるのでしょうか。かつての日本人が、隣国の朝鮮半島や中国のみなさんを蔑称で呼び、考えられないような差別や区別をし、人道にもとる搾取や略奪や陵辱をしてきているのです。戦争とは、そういいった極悪非道を生むものなのです。『日本人は単一民族だ!』という優等意識が、そうさせた一つの原因だったのです。平和を希求するなら、隣国と和していこうと願うなら、この、『私は優れた民族、国家、都市の民だ!』という意識は、どうしても棄てなければなりません。『俺が正しい!』という考えが、今日まで延々と国際摩擦を生んできたのですから、正しく相手を評価しなければならないのです。

 中国に来て、一番感じていることは、中華民族が、古代文明を生み出したことについて、現代の中国のみなさんが、そのことを極めて誇り高く光栄に思っておられることです。この6年間、私が接してきた多くの人たちは、人間的に見て、私よりも優れた人がたくさんおいでです。東北帝国大学に留学して、医者を志していた魯迅を、医学の道から文学の道に、方向転換させた1つの出来事がありました。医学で同胞を助けることよりも、中国人に自信を持たせたいと、魯迅は考るのです。というのは、日露戦争の時のスライドを、魯迅が眺めていました。スパイ容疑で日本軍に処刑される同胞の中国人を、ただぼんやりと眺めているだけの中国人をみて、同胞の「精神の改造」こそが、まず先だと決断したのです。

 それで彼は啓蒙的な文学の道を選びます。自分の栄達や名誉よりも、同胞のために生きるという道を選んだことで、やはり極めて優れた人物だったことになります。魯迅には、周作人という弟がいて、兄に倣って彼もまた文学の道を歩んだ人でした。彼も日本に留学し、日本人女性を妻にしたように、親日家であるが故に、中日の間で、爪弾きにされるといった苦悩を味合わねばならない歴史の中を生きたのです。祖国と故郷を深く愛してやまなかった周作人にとっては、つらい体験だったのです。やはり誰もが、時代に翻弄された「時代の子」だったことになります。

 私にも祖国とか、母国と呼ぶ国があります。「地球人」であリたいと願うのですが、60数年も生きてきた私には、「日本人」であるという意識は、そう簡単にはなくせないようです。しかし民族にこだわって紛争や戦争に陥るのなら、祖国を捨ててしまってもいいとさえ思っております。というのは私には、もう一つの「故郷」があるからであります。

(写真は、魯迅・周作人兄弟の故郷「紹興」の風景です)

甲板にて

 上海から大阪までの甲板やロビーで、私の上の兄と同年齢の方と話をしました。京都の大学を卒えられて、新聞記者をしばらくしていたそうですが、社の方針に沿えなくて、退社してしまったとのこと。ということは、この方は、安定志向よりも自分の納得した生き方をしたかったということでしょうか。それで、『市内の障碍者の施設で、長年働いてきました!』と、おっしゃっておられました。ずっと独身だったそうですが、日本で出会った中国人の女性と結婚されて、上海と関西圏を、「蘇州号」に乗船しては、行き来しているのだそうです。

 終戦の年の昭和20年に、米軍機による空襲があって、東京は大きな被害を被ったのですが、同じ時期に、横浜も空襲にあって、お母様に手を引かれ、川に飛び込んで助かったのだそうです。残念なことに、その空襲で、お父様とは生き別れになったままなのだと話されていました。私の上の兄は、その頃、住んでいた山の中から真っ赤になった街の空が見えたのを覚えていると言いましたから、同じ時期の戦争体験、空襲体験になります。

 戦後、お母様が店の事業を切り盛りして、京都に学ばせてくれたのだそうです。彼自身は、そんな横浜から逃げ出したくて関西圏で学び、そこで仕事をして今日に至っているとのことでした。『私は、年寄り子で、兄は戦地にって、軍務についていました!』と言っていました。私が、中学生の時に、国語の教師から、中国戦線での話を聞いたこと、つまり、この教師が兵士だった時に、中国戦線で、新刀の試し切りをしたことについてでした。教壇からの話としては、配慮のない話題だったと思っているのですが。『どうして、まだ13歳ほどの私たちに、酷い戦争体験を語ったのだろうか、未だに解(げ)せないのです!』と、彼に話したのです。『戦争とは、これほど酷いことなのだ!』と言いたかったのか、それとも自分の自慢話だったのでしょうか。結局、私にとっての中日戦争は、その聞いたことがあまりにも大き過ぎて、どの様な言い訳も、戦争の正当性も美化も受け入れることができなままなのです。

 そうしましたら、彼のお兄さんと一緒に写真を撮ったことがあって、底には、群島を手にしたお兄さんが写っていたのだそうです。戦地でのことを彼に聞いた時に、疚しそうにお茶を濁していたそうで、私の中学の教師と同じような経験があったのだろうと、そう彼が言っていました。お父さんを空襲で亡くし、戦地で戦ったお兄さんがいて、彼自身も空襲で焼け出されたこと、彼は戦争を引きずりながら、戦後を今日まで生きてきたことになるのでしょうか。

 折しも、中日の間には、領土問題が再び起こっております。膝を付きあわせて、冷静になって、協議する以外に解決の道はありません。短絡的に、刺激し合っているなら、小競り合いが起き、せっかく中日友好30周年を迎えているのに、これまでの努力と歩み寄りが水泡に帰してしまいます。それは、どうしても避けたいものです。中国の方々にとって、一番大切なのは「面子」なのです。私たちは、中国人の内面的に大切にされて入りものが何かを、しっかり理解して、潰さないようにすることが必須だと思うのです。文化的な面で、スポーツの面で、また青少年交流・交換留学など、民間での様々につくり上げてきた友好の絆を、さらに強固にしていきたいものです。

 つらい戦争の陰を背負いながら、いまだに忘れられないで苦悩している中国人、加害者なるがゆえの日本人の悔恨が残されているのですね。とくに、船の中で語り合った京都の方の心の中には、父を奪った戦争、兄を蛮行に走らせた戦争、焼夷弾を避けて逃げまわった戦争、その傷跡が残されているのです。ですから、社会から忘れ去られた障害を持った子どもたちにお世話をしてきたのではないでしょうか。このように戦争が終わって67年も経つのに、心の傷の癒えていない方々が、中国にも日本にもおいでなのですね。

 『私は、父が戦闘機を作る部品の軍需工場の責任をしていましたから、中国の学生たちに、謝罪をするんです。そうすると決まって、学生たちは、「先生とあの戦争とは関係がありません。日本の軍人たちのしたことですから!謝らないで下さい」と言ってくれるのです!』と、この方に話しました。償いの気持ちは、やはり日本人として持つべきだと思っております。戦争を美化していくことは、やはり危険なことではないでしょうか。

 そうしますと、私も戦争の影を引きずっていることになりますね。軍からもらった父の給料で、産着や夜具を買ってもらい、ミルクを用意してもらったのですから。そう感じる私たちが、平和を希求することは、私たちの責務に違いありません。私は、日本が、「美しい国」であることを誇りに感じておりますが、この〈美しさ〉の背後に、暗い過去のあることも、決して忘れてはいけなのだと思っております。

(写真は、衛星写真で「南シナ海から中国と日本を望む」映像です)

正直

 9月23日の「夜行バス」で大阪に行こうと思っていましたら、『お父さん。何時までも学生のような気持ちで、夜行バスなんかに乗らないでね。明日の朝一番の新幹線で大阪まで行ってね。私が電車代をだすから!』と、長女が電話をかけてきました。それで変更して、24日の朝6時、品川発の「のぞみ」に乗ることにしました。代官山から品川駅まで電車で行こうとしたら、次男が、『タクシーがいいよ!』と言ってくれましたので、これまた従うことにしたのです。〈貧乏性〉というのは直らないものですね。安い方がいいと思うし、安全とか疲労とかを考えない私を、子供たちは、このように心配するのです。

 駒沢通りと新駒沢通りの分岐点あたりでタクシーを拾いました。荷物をしょって、自転車で付いてきてくれた次男と握手をして別れて、タクシーに乗り込みました。『どちらへ?』というので、『品川駅までお願いします!』と答えました。『品川駅で新幹線に乗るのなら、そこに近い港南口の改札口の方がいいでしょう!』とのことでで、『お願いします!』と答えたのです。いろいろと聞いてきた話の中で、『これまでは飛行機で日本と中国を往復したのですが、今回は、船を利用しましたので、帰りも大阪港から上海行の船に乗るのです!』と言いましたら、『ご旅行ですか?』というので、『学校で日本語を教えているので、新学期に間に合うように帰るのです。もう在華七年目に入ります!』と言いましたら、感心して聞いておられました。

 そんな話をしていましたら、『メーターを止めます!』というのです。『実は道を間違えて、こちらの遠回りの道に来てしまったのです。もう5分ほどで品川駅に着きますが、料金は、このメーターで結構です!』というのです。今まで、遠回りされたことがありますが、こんなことをした運転手はいませんでした。故意に間違えたのではないのですが、品川周辺の道路など全く知らない私ですから、そのまま走っても問題はなかったのですが、そこまで気を回してくれたのには驚かされたのです。それで、『そうですか・・・』と言って承知したのです。下車するときには、『お気をつけて!』と、旅の無事の言葉を添えてくれました。

 私は勘ぐることもできましたが、こういった誠実で、正直さをあらわす運転手がいることに驚いたのです。昔から、「雲助」と言って、粗暴で料金を多くとる運転手が多いのに、東京を離れる日の朝に、こんな経験をして、実にすがすがしい思いで、「のぞみ」に乗り込んだのです。そういえば、天津にいたときに、習いたての標準語で、運転手と話をしていたら、何を思ったのか下車のときに、『タクシー代は要らない!』と言ってくれたのです。『いや払う!』と言いながら、この運転手の行為を喜んで受けて、『謝謝!』と言って降りたことがありました。家内が乗っていて、ちょうど長女が来ていて、一緒だったと思います。

 6000円の高速バス代は無駄になってしまったのですが、それにはかえられない思いにされたことに感謝を覚えたことでした。日本でも中国でも、いろいろな出会いがあります。今回、こんないい気分で戻ってきたとき、家内に、この話の顛末を語ったら、彼女も感心して聞いていました。世界中、いい人が多いのですから、明るく生きて生きたいものです。

抗議&公義

 

 帰国中、好いニュースが少なかったのです。日本中が、豪雨とか、領土問題とか、熱中症とかの話題で満ち溢れていました。そんなニュースの中で、福島原発事故の放射線漏れは、収束するのでしょうか。それとも、この問題を、ずっと引きずり続けていくのでしょうか。そんな思いにさせられているのに、大飯原発が再稼働しました。それで、週末の金曜日には、首相官邸にデモ隊が繰り出し、『再稼働反対!』と叫んでおり、その中に、私の下の息子がいるのだそうです。「義侠心」というのでしょうか、「正義感」の強い彼が、自分の甥や姪の将来のことを思いながら、次の時代を担う子供たちが、放射線被害を被ることのないようにと、寸暇を惜しみながら反対を叫んでいるのです。

 昔、「タコ部屋」というのがありました。有名なのが、北海道の開拓のために、道路整備が急務でした。「屯田兵」と言われた人たちが、その仕事にあたったのですが、その他に、監獄に収監されていた囚人たちを、その労働に使ったのです。彼らの血と汗とによって、北海道開拓が進み、道路網が広がったことになります。粗衣粗食の彼らの生活環境が、「タコ部屋」でした。甘いことを言って募集した人夫たちを、低賃金と劣悪な労働条件で働かせ、監視つきの宿舎に閉じ込めたのですが、そこも「タコ部屋」と呼んでいました。

 息子の話によりますと、事故現場の労働者たちは、山谷や釜ヶ崎の「ドヤ街」から、募集して、身入りのいい仕事につきたい人たちが送り込まれて仕事をしているのだそうです。十分な安全服を着用したりしていないのでしょうか、まさに放射線の中での労働は、危険極まりないのですし、多くの人たちが、放射線を浴びて死んでいるとのことでした。そういったニュースにならないことこそが、わたしたちの知らなければならない真実なのだと思います。

 産業界が活性化することは必要ですし、国力を元のように強力にすることも必要かも知れません。そうしたら子どもたちや若者に、日本の将来への期待がおおきくなることでしょう。。しかし、真実が伝えられていないことと、そして安全対策の盲点をくぐって、そういった労働が公然と行われていることに、私の息子は憤っているのです。反対運動をする人にも、様々な動機があるのですが、私は息子に、『「義」、とくに「公義」に立ってされない行動は、偽善や、不純な結果に人をつれていくので、同じ憤りを感じて反対するにしても、この立場を守って行動して欲しい!』と伝えたのです。

 『いつか、重大な事故が起こって、日本が壊滅するのではないか!』と思わせたのが、「日本沈没」という映画を見てからでした。近畿圏で、同じような事故が起きて、放射線が漏れるようなことが再び起こるなら、建国以来の一大危機に、日本は落ち込みます。それでなくても、地震と地震の噂を聞いているのですから。日本では、今日9月1日、関東大震災を記念した「防災の日」です。心して、惜しむことなく原発の危険帯の安全対策を怠ってはいけないと思うのです。

 もしかしたら、超ノーベル賞獲得確実な、「放射線の中和剤の発明」があるのでしょうか。そんな研究がなされているといいのですが。人類は、様々な危機を乗り越えてきたのですから、叡智を結集し、大能者にあわれみを求めるなら可能かも知れません。そんなことを願う「防災の日」であります。

(写真は、地震と津波のあと、爆発した福島原発事故の現場です)

上海

 昭和26年(1951年)に、作詞・東條寿三郎、作曲・渡久地政の「上海帰りのリル」という歌が流行りました。ビロードの声と言われた津村権が歌って、一世を風靡(ふうび)したのです。

船を見つめていた
ハマのキャバレーにいた
風の噂はリル
上海(シャンハイ)帰りのリル リル
あまい切ない 思い出だけを
胸にたぐって 探して歩く
リル リル 何処(どこ)にいるのかリル
誰かリルを 知らないか

黒いドレスを見た
泣いていたのを見た
戻れこの手にリル
上海帰りのリル リル
夢の四馬路(スマロ)の 霧降る中で
何も言わずに 別れた瞳
リル リル 一人さまようリル
誰かリルを 知らないか

海を渡ってきた
ひとりぼっちできた
のぞみ捨てるなリル
上海帰りのリル リル
暗い運命(さだめ)は 二人で分けて
共に暮そう 昔のままで
リル リル 今日も逢えないリル
誰かリルを 知らないか

 小学生の私が覚えて、こんな酒場や恋や運命などの歌詞の入った歌を口ずさんでいたのです。東洋最大の国際都市・上海は、なんとなくエキゾチックな香りがして、この歌をうたうたびに、子ども心にも、何時か行ってみたいと思っていました。しかし戦前は、列強諸国の「租界」があって、中国の治外法権の地域が、この上海にもありました。私が以前1年間住んだ天津の街にも「租界」があって、語学学校の先生が案内してくれて、見学して歩きました。中国人が入ることのできない「外国」が、自分の国にあったということは、中国のみなさんにとっては屈辱的なことだったのではないでしょうか。残念ながら、日本の租界もありましたし、日本人街もあったのです。その上、日本は軍隊を投入し「上海事変」を犯した経緯があるのです。

 以前、上海に行きましたときに、「東方明殊広播電視塔」の展望台から、『あのへんに日本人街があったのです!』と、案内してくださった朝鮮系中国人の方が教えてくれました。今回、通過した上海の街は、常住人口2000万人、アジア一の国際商業都市で、13万人もの日本人が住んで活動をしているのです。外国人としてはもっとも多いのが邦人だそうです。旅行者、私のような通過者を入れると、どれほどの日本人がいるのか見当がつきません。それほど日本と中国は緊密な関係にあるのですね。

 船の中で、上海で事業をしている数人の日本人、日本と中国を行き来している中国人ビジネスマンと話をしました。商売をしたことのない私にとって、興味をそそるような話や、大変な話をお聞きしました。そんな中で学生たちも大分いて、青山学院大学の3回生が、アジアの国々の子どもたちの実情を見聞しようと、中国を皮切りに旅行をすると言っていました。目の澄んだ好青年でした。名刺を交換して、『リポートをしてください!』とお願いし、旅の祝福を願って、港で別れました。もう一人は、アルバイトをして得た70万円を持って、『これから1年間、S大学で日本語を学ぼうと思っています!』言っていました。地理学を専攻し、これから大学院で学ぶ前の旅行なのだそうです。彼もキラキラした目を輝かせて、今時の学生にはないような、意気を感じさせてくれました。留学したり、海外で活躍しようとする若者が少なくなる傾向の中で、こういった志を持って出て行く学生がいることを知って、なんとなく嬉しくなってきてしまいました。

 上海、魯迅公園などがある街なのですが、歌に歌われ続けてきた街を、何時かぶらりと訪ねてみたいと思わされました。

(写真は、1928年の上海、「外灘(外国人居留地の租界)」です)

花金

 もう20年になるのですが、1992年5月1日に、国家公務員が週休2日制になって、企業でもこの制度を導入しました。私の勤め人時代は土曜日半ドンでしたし、受継いだ事業をし始めてからは、週末が忙しく、休むことなどなく40年近く働いたのです。サラリーマンにとって、連休前の金曜日の退社後は、「自由」や「開放」を味わうことができる至福の時を意味したのでしょうか、それで、「花金」と言われるようになったようです。バブルが弾けてしまってからは、有名無実になってしまったのかも知れませんが、それでも週休2日制というのは、働き蜂のように働き続けてきた日本人が、欧米並みに、週末に自分と向き合えるようになったということになるでしょうか。

 大阪に上陸した翌日、昼行高速バスで大阪駅から乗車して、東京駅日本橋口に着いたのが、7時半頃だったでしょうか。東京駅の地下街は、退社したサラリーマンで溢れていました。食べ物屋や居酒屋は満員で溢れかえっていました。一週間で一番「好い時」が、金曜日の夕刻であることが分かりました。顔から緊張感がなくなって、みんな楽しそうなおじさんやお兄さんやお姉さんたちでした。普段は通勤電車の中では、寡黙な人の群れなのですが、ネジが緩んで全くの開放感が溢れていました。家に帰れば夫や父親をしなければならないのですが、そこでは一人の普通の自分になれるので、本当の自分を演じることができるのでしょうか。こういった時が、日々の責務を支えているとしたら、花金の夕方のひとときというのは、どうしても必要にちがいありません。

 今回の船旅で、東シナ海から日本沿岸に近付いた時に、対馬や壱岐の島の近くを通ったのだと思います。この壱岐の出身の方が、私の上司でした。お酒が好きで、市ヶ谷で会議がはねたあとは、決まって誘われて新宿で下車して、彼のお供をしました。旧制の浦和高校から東京大学に学んだ方で、法律を専攻され、事務局次長をしておられました。優秀な方でしたが、組織の人事というものの不思議さでしょうか、局長になれないでいたのです。そういった組織の様々な矛盾を感じながら、この方の下で働けせてもらいました。その後、どこかの学校の責任者になって転出されていかれたと聞いております。会議録をまとめると、『ダメ、やり直し!』と言われてはなんども書き直させられました。でも、とても好い勉強になったと思って、今では感謝しております。あの頃、金曜日でなくても、しょっちゅう、誘われていたと思います。話を聞いてあげる、聞き役に徹して、色々なことを学んだのかも知れません。

 日比谷公園の脇を、私の乗ってきたバスが通過しましたが、そこは、大都会のオアシスで、都民、取り分け丸の内界隈で働くサラリーマンの〈憩いの場〉の1つで、美しく整然とした緑の一郭であります。どなたが設計したのでしょうか、東京の街はきれいだと感心しました。ただビルが乱立しているだけではなく、堀を埋めることもしないで、往時のままに残しているのです。父の事務所が日本橋の三越の前にあって、何度かついていったことがありました。世代から世代へと、仕事が受け継がれ、人生の最も良い時期を、日本経済のために仕えた人々が通りすぎていった街であることを思って、感じることも一入のものがありました。

 そぞろ歩く人の波に合流し、山手線に乗り込みました。日がな一日、オフイスで働き、外回りをしていたサラリーマンの帰宅に合流したのでした。『お勤めご苦労様!』と、退職者の年齢の私は一言、そっとつぶやいてしまいました。

(写真は、日比谷公園の入り口です)