上海

 昭和26年(1951年)に、作詞・東條寿三郎、作曲・渡久地政の「上海帰りのリル」という歌が流行りました。ビロードの声と言われた津村権が歌って、一世を風靡(ふうび)したのです。

船を見つめていた
ハマのキャバレーにいた
風の噂はリル
上海(シャンハイ)帰りのリル リル
あまい切ない 思い出だけを
胸にたぐって 探して歩く
リル リル 何処(どこ)にいるのかリル
誰かリルを 知らないか

黒いドレスを見た
泣いていたのを見た
戻れこの手にリル
上海帰りのリル リル
夢の四馬路(スマロ)の 霧降る中で
何も言わずに 別れた瞳
リル リル 一人さまようリル
誰かリルを 知らないか

海を渡ってきた
ひとりぼっちできた
のぞみ捨てるなリル
上海帰りのリル リル
暗い運命(さだめ)は 二人で分けて
共に暮そう 昔のままで
リル リル 今日も逢えないリル
誰かリルを 知らないか

 小学生の私が覚えて、こんな酒場や恋や運命などの歌詞の入った歌を口ずさんでいたのです。東洋最大の国際都市・上海は、なんとなくエキゾチックな香りがして、この歌をうたうたびに、子ども心にも、何時か行ってみたいと思っていました。しかし戦前は、列強諸国の「租界」があって、中国の治外法権の地域が、この上海にもありました。私が以前1年間住んだ天津の街にも「租界」があって、語学学校の先生が案内してくれて、見学して歩きました。中国人が入ることのできない「外国」が、自分の国にあったということは、中国のみなさんにとっては屈辱的なことだったのではないでしょうか。残念ながら、日本の租界もありましたし、日本人街もあったのです。その上、日本は軍隊を投入し「上海事変」を犯した経緯があるのです。

 以前、上海に行きましたときに、「東方明殊広播電視塔」の展望台から、『あのへんに日本人街があったのです!』と、案内してくださった朝鮮系中国人の方が教えてくれました。今回、通過した上海の街は、常住人口2000万人、アジア一の国際商業都市で、13万人もの日本人が住んで活動をしているのです。外国人としてはもっとも多いのが邦人だそうです。旅行者、私のような通過者を入れると、どれほどの日本人がいるのか見当がつきません。それほど日本と中国は緊密な関係にあるのですね。

 船の中で、上海で事業をしている数人の日本人、日本と中国を行き来している中国人ビジネスマンと話をしました。商売をしたことのない私にとって、興味をそそるような話や、大変な話をお聞きしました。そんな中で学生たちも大分いて、青山学院大学の3回生が、アジアの国々の子どもたちの実情を見聞しようと、中国を皮切りに旅行をすると言っていました。目の澄んだ好青年でした。名刺を交換して、『リポートをしてください!』とお願いし、旅の祝福を願って、港で別れました。もう一人は、アルバイトをして得た70万円を持って、『これから1年間、S大学で日本語を学ぼうと思っています!』言っていました。地理学を専攻し、これから大学院で学ぶ前の旅行なのだそうです。彼もキラキラした目を輝かせて、今時の学生にはないような、意気を感じさせてくれました。留学したり、海外で活躍しようとする若者が少なくなる傾向の中で、こういった志を持って出て行く学生がいることを知って、なんとなく嬉しくなってきてしまいました。

 上海、魯迅公園などがある街なのですが、歌に歌われ続けてきた街を、何時かぶらりと訪ねてみたいと思わされました。

(写真は、1928年の上海、「外灘(外国人居留地の租界)」です)

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