もう20年になるのですが、1992年5月1日に、国家公務員が週休2日制になって、企業でもこの制度を導入しました。私の勤め人時代は土曜日半ドンでしたし、受継いだ事業をし始めてからは、週末が忙しく、休むことなどなく40年近く働いたのです。サラリーマンにとって、連休前の金曜日の退社後は、「自由」や「開放」を味わうことができる至福の時を意味したのでしょうか、それで、「花金」と言われるようになったようです。バブルが弾けてしまってからは、有名無実になってしまったのかも知れませんが、それでも週休2日制というのは、働き蜂のように働き続けてきた日本人が、欧米並みに、週末に自分と向き合えるようになったということになるでしょうか。
大阪に上陸した翌日、昼行高速バスで大阪駅から乗車して、東京駅日本橋口に着いたのが、7時半頃だったでしょうか。東京駅の地下街は、退社したサラリーマンで溢れていました。食べ物屋や居酒屋は満員で溢れかえっていました。一週間で一番「好い時」が、金曜日の夕刻であることが分かりました。顔から緊張感がなくなって、みんな楽しそうなおじさんやお兄さんやお姉さんたちでした。普段は通勤電車の中では、寡黙な人の群れなのですが、ネジが緩んで全くの開放感が溢れていました。家に帰れば夫や父親をしなければならないのですが、そこでは一人の普通の自分になれるので、本当の自分を演じることができるのでしょうか。こういった時が、日々の責務を支えているとしたら、花金の夕方のひとときというのは、どうしても必要にちがいありません。
今回の船旅で、東シナ海から日本沿岸に近付いた時に、対馬や壱岐の島の近くを通ったのだと思います。この壱岐の出身の方が、私の上司でした。お酒が好きで、市ヶ谷で会議がはねたあとは、決まって誘われて新宿で下車して、彼のお供をしました。旧制の浦和高校から東京大学に学んだ方で、法律を専攻され、事務局次長をしておられました。優秀な方でしたが、組織の人事というものの不思議さでしょうか、局長になれないでいたのです。そういった組織の様々な矛盾を感じながら、この方の下で働けせてもらいました。その後、どこかの学校の責任者になって転出されていかれたと聞いております。会議録をまとめると、『ダメ、やり直し!』と言われてはなんども書き直させられました。でも、とても好い勉強になったと思って、今では感謝しております。あの頃、金曜日でなくても、しょっちゅう、誘われていたと思います。話を聞いてあげる、聞き役に徹して、色々なことを学んだのかも知れません。
日比谷公園の脇を、私の乗ってきたバスが通過しましたが、そこは、大都会のオアシスで、都民、取り分け丸の内界隈で働くサラリーマンの〈憩いの場〉の1つで、美しく整然とした緑の一郭であります。どなたが設計したのでしょうか、東京の街はきれいだと感心しました。ただビルが乱立しているだけではなく、堀を埋めることもしないで、往時のままに残しているのです。父の事務所が日本橋の三越の前にあって、何度かついていったことがありました。世代から世代へと、仕事が受け継がれ、人生の最も良い時期を、日本経済のために仕えた人々が通りすぎていった街であることを思って、感じることも一入のものがありました。
そぞろ歩く人の波に合流し、山手線に乗り込みました。日がな一日、オフイスで働き、外回りをしていたサラリーマンの帰宅に合流したのでした。『お勤めご苦労様!』と、退職者の年齢の私は一言、そっとつぶやいてしまいました。
(写真は、日比谷公園の入り口です)