祖国のある幸い

 「爪弾き(つまはじき)」という言葉があります。gooの辞書で調べますと、『[名](スル) 1 人さし指や中指を親指の腹に当て、強くはじくこと。嫌悪・軽蔑・非難などの気持ちを表すしぐさ。 2 ある人を忌みきらって排斥すること。「同僚から―される」』とあります。「いじめ」に通じる言葉のようで、これは日本にだけ見られる社会現象ではなく、ほとんどの国で、今、起こっていて、なかなか対策を講じられない複雑な社会問題のようです。

 「流浪の民」と呼ばれた民族があります。国が消滅して、地上に自分の祖国とか母国と呼ぶことのできる国がなくなってしまった人たちのことです。それで世界中を流浪して、根無し草のように生きるのです。私たちの国でも、《逃散》ということで村を追われたり、自分の意志で、先祖伝来の地を出たりして、人里離れた山奥などで生活をし始めた人たちがいました。「穢多(えた)」とか「非人」とか「賤民」と呼ばれて、差別された人たちのことで、無戸籍である以外は、私たちと全く変わらない方たちなのです。自分たちをまともな人間だと思っている人が、忌み嫌う仕事に従事することで、生きてきた人たちでした。ですから職業蔑視も、こんなところから生まれてきているようです。《自分たちと違うもの(者、物)》を受け入れられない偏狭な考え方が、こういった差別や区別を生んできたことになります。

 私は会ったことはないのですが、ヨーロッパを流浪して旅をする《ジプシー》と呼ばれた人たちがいました。今もいるのでしょうか。ギターを奏でて歌い、踊りを舞って生活をしていました。あの悪名高きナチスが、「ユダヤ人」と共に、絶滅宣言をしようとしたことで、よく知られています。

 こういったことが、なぜ起きるのでしょうか。かつての日本人が、隣国の朝鮮半島や中国のみなさんを蔑称で呼び、考えられないような差別や区別をし、人道にもとる搾取や略奪や陵辱をしてきているのです。戦争とは、そういいった極悪非道を生むものなのです。『日本人は単一民族だ!』という優等意識が、そうさせた一つの原因だったのです。平和を希求するなら、隣国と和していこうと願うなら、この、『私は優れた民族、国家、都市の民だ!』という意識は、どうしても棄てなければなりません。『俺が正しい!』という考えが、今日まで延々と国際摩擦を生んできたのですから、正しく相手を評価しなければならないのです。

 中国に来て、一番感じていることは、中華民族が、古代文明を生み出したことについて、現代の中国のみなさんが、そのことを極めて誇り高く光栄に思っておられることです。この6年間、私が接してきた多くの人たちは、人間的に見て、私よりも優れた人がたくさんおいでです。東北帝国大学に留学して、医者を志していた魯迅を、医学の道から文学の道に、方向転換させた1つの出来事がありました。医学で同胞を助けることよりも、中国人に自信を持たせたいと、魯迅は考るのです。というのは、日露戦争の時のスライドを、魯迅が眺めていました。スパイ容疑で日本軍に処刑される同胞の中国人を、ただぼんやりと眺めているだけの中国人をみて、同胞の「精神の改造」こそが、まず先だと決断したのです。

 それで彼は啓蒙的な文学の道を選びます。自分の栄達や名誉よりも、同胞のために生きるという道を選んだことで、やはり極めて優れた人物だったことになります。魯迅には、周作人という弟がいて、兄に倣って彼もまた文学の道を歩んだ人でした。彼も日本に留学し、日本人女性を妻にしたように、親日家であるが故に、中日の間で、爪弾きにされるといった苦悩を味合わねばならない歴史の中を生きたのです。祖国と故郷を深く愛してやまなかった周作人にとっては、つらい体験だったのです。やはり誰もが、時代に翻弄された「時代の子」だったことになります。

 私にも祖国とか、母国と呼ぶ国があります。「地球人」であリたいと願うのですが、60数年も生きてきた私には、「日本人」であるという意識は、そう簡単にはなくせないようです。しかし民族にこだわって紛争や戦争に陥るのなら、祖国を捨ててしまってもいいとさえ思っております。というのは私には、もう一つの「故郷」があるからであります。

(写真は、魯迅・周作人兄弟の故郷「紹興」の風景です)

甲板にて

 上海から大阪までの甲板やロビーで、私の上の兄と同年齢の方と話をしました。京都の大学を卒えられて、新聞記者をしばらくしていたそうですが、社の方針に沿えなくて、退社してしまったとのこと。ということは、この方は、安定志向よりも自分の納得した生き方をしたかったということでしょうか。それで、『市内の障碍者の施設で、長年働いてきました!』と、おっしゃっておられました。ずっと独身だったそうですが、日本で出会った中国人の女性と結婚されて、上海と関西圏を、「蘇州号」に乗船しては、行き来しているのだそうです。

 終戦の年の昭和20年に、米軍機による空襲があって、東京は大きな被害を被ったのですが、同じ時期に、横浜も空襲にあって、お母様に手を引かれ、川に飛び込んで助かったのだそうです。残念なことに、その空襲で、お父様とは生き別れになったままなのだと話されていました。私の上の兄は、その頃、住んでいた山の中から真っ赤になった街の空が見えたのを覚えていると言いましたから、同じ時期の戦争体験、空襲体験になります。

 戦後、お母様が店の事業を切り盛りして、京都に学ばせてくれたのだそうです。彼自身は、そんな横浜から逃げ出したくて関西圏で学び、そこで仕事をして今日に至っているとのことでした。『私は、年寄り子で、兄は戦地にって、軍務についていました!』と言っていました。私が、中学生の時に、国語の教師から、中国戦線での話を聞いたこと、つまり、この教師が兵士だった時に、中国戦線で、新刀の試し切りをしたことについてでした。教壇からの話としては、配慮のない話題だったと思っているのですが。『どうして、まだ13歳ほどの私たちに、酷い戦争体験を語ったのだろうか、未だに解(げ)せないのです!』と、彼に話したのです。『戦争とは、これほど酷いことなのだ!』と言いたかったのか、それとも自分の自慢話だったのでしょうか。結局、私にとっての中日戦争は、その聞いたことがあまりにも大き過ぎて、どの様な言い訳も、戦争の正当性も美化も受け入れることができなままなのです。

 そうしましたら、彼のお兄さんと一緒に写真を撮ったことがあって、底には、群島を手にしたお兄さんが写っていたのだそうです。戦地でのことを彼に聞いた時に、疚しそうにお茶を濁していたそうで、私の中学の教師と同じような経験があったのだろうと、そう彼が言っていました。お父さんを空襲で亡くし、戦地で戦ったお兄さんがいて、彼自身も空襲で焼け出されたこと、彼は戦争を引きずりながら、戦後を今日まで生きてきたことになるのでしょうか。

 折しも、中日の間には、領土問題が再び起こっております。膝を付きあわせて、冷静になって、協議する以外に解決の道はありません。短絡的に、刺激し合っているなら、小競り合いが起き、せっかく中日友好30周年を迎えているのに、これまでの努力と歩み寄りが水泡に帰してしまいます。それは、どうしても避けたいものです。中国の方々にとって、一番大切なのは「面子」なのです。私たちは、中国人の内面的に大切にされて入りものが何かを、しっかり理解して、潰さないようにすることが必須だと思うのです。文化的な面で、スポーツの面で、また青少年交流・交換留学など、民間での様々につくり上げてきた友好の絆を、さらに強固にしていきたいものです。

 つらい戦争の陰を背負いながら、いまだに忘れられないで苦悩している中国人、加害者なるがゆえの日本人の悔恨が残されているのですね。とくに、船の中で語り合った京都の方の心の中には、父を奪った戦争、兄を蛮行に走らせた戦争、焼夷弾を避けて逃げまわった戦争、その傷跡が残されているのです。ですから、社会から忘れ去られた障害を持った子どもたちにお世話をしてきたのではないでしょうか。このように戦争が終わって67年も経つのに、心の傷の癒えていない方々が、中国にも日本にもおいでなのですね。

 『私は、父が戦闘機を作る部品の軍需工場の責任をしていましたから、中国の学生たちに、謝罪をするんです。そうすると決まって、学生たちは、「先生とあの戦争とは関係がありません。日本の軍人たちのしたことですから!謝らないで下さい」と言ってくれるのです!』と、この方に話しました。償いの気持ちは、やはり日本人として持つべきだと思っております。戦争を美化していくことは、やはり危険なことではないでしょうか。

 そうしますと、私も戦争の影を引きずっていることになりますね。軍からもらった父の給料で、産着や夜具を買ってもらい、ミルクを用意してもらったのですから。そう感じる私たちが、平和を希求することは、私たちの責務に違いありません。私は、日本が、「美しい国」であることを誇りに感じておりますが、この〈美しさ〉の背後に、暗い過去のあることも、決して忘れてはいけなのだと思っております。

(写真は、衛星写真で「南シナ海から中国と日本を望む」映像です)