私たちが住んでいる街の食料品店に行きますと、「かまぼこ」のように、板の上に載せらてはいませんが、魚のすり身を加工したもので、丸くて一口で食べられたり、様々な形をしたものがあります。また、それを油で上げた「薩摩揚げ」の様なものもあります。魚肉の加工というのは、華南の海辺から始まっているのか、それとも薩摩藩や紀州藩の加工品が伝わったのか、食文化の交流があったことだけは確かです。
私たちが小さい頃に、5月になる前に、決まって母の故郷から、「ちまき」が送られてきたのです。『大きく育て!』との祖母の願いが込められていて、母がふかしてくれ、砂糖醤油をつけて食べた味、それが「こどもの日」、「端午の節句」の記憶の中にある味なのです。私が世帯をもってから、毎年年末になりますと、母の故郷から2種類の贈答品が送られてきました。母がいたすぐ上の兄の家だけではなく、私の兄弟全員に、律儀に送られてきて、『アッ、もうすぐ正月が来るんだ!』と思わされたものです。それは、年越しそば用にと、「出雲そば』、それに、母が「野焼」といっていた、「あご野焼」でした。母の弟のようにしていた方からでした。戦争中には、「予科練(海軍予科練習性)」に行っておられ、戦後は、山奥にあった父の会社の手伝いをされたことがあった方で、私は、母が呼ぶように、『シゲちゃん!』と呼んでいたのです。
長い山道を泣きながら私をおぶって、連れ帰ってくれたことがあった、いまだに頭の上がらないのがこの方なのです。父によく聞かされた話で、何年も前に、その時のことを詫びて手紙を出したことがありました。母の故郷には、何度か行ったことがあるのですが、母をよく覚えてくれるのは、もうこの方くらいになったのではないでしょうか。なぜ、この方や、「あご野焼」を思い出したのかといいますと、上海に向けての帰路の航路から、ひっきりなしに飛び去っていく飛魚が見えたのです。東シナ海の鳥も通わない大海原の中ですから鳥ではなく、そう「飛魚」でした。船の進路から逃れようとして無数の飛魚が、陽を浴びてキラリと飛んでいるではありませんか。海上でしか見ることのできない美しい光景でした。
この「飛魚」を、私の母の故郷では「あご」と呼ぶのです。私が目撃したのは、五島列島を、だいぶ進んだ海上だったので、長崎でも、そう呼ぶようですから、九州や日本海側では、こういった呼び方をするのでしょうか。『このあごの白身をすって作ったのが、野焼よ!』と母に教えてもらったことがありました。故郷とは、どこなのでしょうか。自分が生まれた村には、親戚も家もなく、ただ思い出だけですし、育った隣村にも、だれも何もありませんから、自分は「無故郷」なのかと寂しく思うこともあります。ですから、母の故郷こそが、自分の故郷のような気がして、とても懐かしく感じられるのです。殊の外、この「あご野焼」の味は、目と舌と胃袋で感じ取れる「故郷の味」、「故郷」そのものなのです。
そんなことを思い出していたら、しきりに食べたくなってしまいました。しばらく買い物に行っていませんので、これから近くのスーパーに、食料品を買い出しに行こうと思っています。今日は、目を凝らしながら、「野焼」のような練り製品を見つけてみようと思っています。この月初めに、私の弟が、「シゲちゃん」を表敬訪問したと知らせてくれました。3月末に母が召されたことの報告と、感謝をするためだそうです。兄たちと私の記した手紙も持参してくれました。彼が高校生の頃、父の客人が我が家に来ますと、彼は、必ずその客人の靴を磨き上げていました。父や母への恩義を忘れないで、感謝する弟の律儀さに頭が下がってしまいます。
(写真上は、「飛魚」、下は、この飛魚で加工した「あご野焼」です)