愛国心

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 私は、青年期に、『俺が「日本人」であること!』に、特別なこだわりを持っていました。近くにアメリカ軍の空軍基地がある街で、少年期を過ごしましたから、軍服や私服で街中を闊歩する彼らを見ていたので、格別に、そういった意識が強くなったのではないかと思っています。背が高くて、眼が青く、金髪で、栄養満点で、大きな自動車に乗っている彼らは、敗戦後の私たち日本人と比べたら、裕福で容姿もいいし、輝いているように見えました。肉なんて食べることができない時代の私たちは、ある意味で、劣等感を感じていたのだろうと思うのです。そんな彼らが、チョコレートやチューインガムを投げ、お金をばらまいていたことがありました。朝鮮戦争に駆り出され、休暇をその街でとって、また戦場に戻っていく、戦時下の若い兵士たちは、競ってそれを奪い合っている子どもたちを眺めて、声を上げて喜んで見ていました。

 そうしなければ、舶来の菓子を口にすることができないほど、物資が不足していた時代に育った私たちの世代の子どもたちの、実に惨めな過去が、そこにあって、時々思い出されるのです。中央線の引込線に、兵士たちを載せた列車が、一時停車していました。その列車の中から、同じように、クッキーや日本円を投げていました。〈一寸の虫にも五分の魂〉と言いたいのですが、空腹に負けて、拾った小学生の私は、口には甘く、腹には苦いような経験をしたのを覚えています。そんな私が、青年期を迎え、お酒を飲むことも覚え、基地の街の駅にいると、ヴェトナム戦争に従軍して、休暇中の兵士たちが〈我が物顔〉で騒いでいました。酔っていた私は、少しばかり喧嘩通でしたので、殴り合いはしませんでしたが、一触即発の場面があったのです。『ここは俺の国、俺は生粋の日本人なんだ!この国で勝手に振る舞いやがって!』という強い気持ちを、酔った勢いで、彼らにぶっつけたのです。『大学生とアメリカ兵が乱闘!』などという新聞沙汰にならなかったのは、不幸中の幸いだったのだと思います。

 そんなことがあって、私に危機を生み出す、酒もタバコも止めてしまいました。『飲み続けたら死ぬ!』、そんな思いにされたのです。そんな私に、アメリカ人起業家と一緒に働く機会がやってきたのです。母や上の兄が懇意にしていた方でした。そんな関係で、彼の事業の手伝いをし始めたのですが、私の内側にある「日本人」としての頑固な意識は、いつも彼との間に悶着と軋轢を生んだのです。彼との関係に、私の「日本精神」が邪魔だったのです。この方と八年間、一緒に働きましたが、その年月は、私のその精神を取り扱う日々だったと思います。母や兄が、仲介してくれて、関係が保たれ、結局、彼の働きを受け継ぐことになったのです。

 ところが私の家内は、「日本人」へのこだわりのない家庭で育って、子供の頃から英語を父親から学び、アメリカ人が出入りする家で育ったのです。結婚して彼女は、『何人(なにじん)なんてこだわらないで、同じ〈人〉としてみるべきだと思う!』と、よく私に言いました。そんな彼女の忠告と、八年間の私の師匠の忍耐によって、「日本精神」を征伐することができたのです。ある時、私が台湾に視察に出かけたことがありました。台南で泊めてくださった、一人の会社の社長と話をしていた時、『ここに日本人の社長がいたのですが、失敗して帰って行かれました!』と言われたのです。それで私は、『どうして失敗したのですか?』とお聞きしたのです。この方は、『彼が持っていた「日本精神」、それにこだわりすぎて、こちらの方の心をつかめなく、結局だめでした!』と答えられました。そのお話の顛末(てんまつ)が、私にはよく分かったのです。

 現在、一番問題にしなければならないのは、劣等感をウラに持っている、日本人の「優等意識」です。これこそが、国際関係の中で、問題を起こしてきている最大原因だと思います。米も食べられないで芋を喰らい、肉なんか拝んでも手に入らない中で生きていた時代を、私たちが忘れてしまっていることです。きっと中国のみなさんが危惧しているのは、「日本精神」に違いありません。それが、あの戦争に駆り立てたからです。豊かになって忘れた私たちは、再び「日本精神」に立とうとしているのです。

 今の私にも、生まれ育った日本への「愛」や「感謝」や「誇り」があります。よく考えてみますと、私が青年期に持っていた歪んだ「愛国心」とは全く違うのに気づきます。自分の国を愛するが故に、どの国の人にも「愛国心」があることを認められるのです。『二度と侵されたくない!』との中国や韓国のみなさんの切なる思いが、このところ少々本道から外れて現れてしまっているのかも知れません。『話せば分かる!』、この一手に望みを置き、四十年の双方の努力を水泡に帰さないために、テーブルに着こうではありませんか。

(写真上は、かつての空軍基地は平和利用の「公園」、下は、米軍基地の古写真です)

協力

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 井戸の中の蛙が、海を見て、その大きさに驚愕している姿を、想像できるでしょうか。浦賀にやってきた「黒光りの黒煙を吐く船」を、矢切の渡し舟が見たら、ひっくり返るように驚くことでしょうね。1853年、嘉永三年に、その船(黒船艦隊)が浦賀沖にやってきたのです。日本中がひっくり返るような出来事でした。この時、長州藩の藩黌(はんこう)、「明倫館」で学んでいた十四歳の少年・晋作は、どんなことを思ったのでしょうか。一人の日本人として、として、危機感を募らせたのではないでしょうか。1862年、晋作は藩名により、幕府使節随行員として、上海を視察します。5月から二ヶ月間のことでした。上海で見聞きしたことは、その後の彼の行動を決定的にしてしまうのです。

 一体、高杉晋作は、上海で何を見たのでしょうか。「アヘン戦争」で、イギリスに負け、植民地のような状況になった悲惨な中国、混乱した上海の様子に驚愕したのです。晋作は、このままでは、日本は中国と同じ運命をたどると思い始めます。それで帰国すると、他藩の青年藩士と共に、横浜にあった「外国人居留地」の外国人の「暗殺計画」を企てます。その計画は未遂に終わります。その後、「尊皇攘夷」のための組織作りに奔走し、今度は、横浜のイギリス公使館を焼き討ちにし、それで幕府と一戦を交える「倒幕計画」を立てるのです。焼き討ちは成功しますが、幕府と一戦交えることには失敗してしまいます。

 その後、彼は藩から暇をもらい、剃髪して、西行法師にちなんで、「東行」と名乗るのです。彼が隠遁している間、外国船が日本に近づいてきたので、打ち払いのために、長州は、下関に砲台を設けて、無差別に砲撃をします。その報復で、アメリカとフランスの艦隊が仕返しをしたのが、1863年と1964年の二度にわたって起こったのが「下関戦争」でした。圧倒的な武力の差があって、長州藩は負けてしまうのです。〈尊皇攘夷〉の運動に奔走する中、彼は、1867年5月に病死してしまいます。27歳でした。

 この8月、上海から大阪の間を就航しています「蘇州号」に乗船して帰国ました。五島列島を右に見ながら九州が見え、やがて、「関門橋」の下を通過した時に、『このあたりが、「下関戦争」が行われたのだろうか?』と思ったことでした。九州と本州をむすぶこの大橋は、150年前の騒ぎなどなかったように、泰然とし自若ていたのです。


 私たちの国、日本は、自然環境は厳しく、凶作や災害も多かったのですが、外から襲ってくる敵もなく、全般的にみますと、恵まれた国ではなかったでしょうか。豊かな自然、地味も肥え、海産物も豊かで、太平の世を、長らく過ごしてきたのです。ところが、高杉晋作が味わった「外患内憂」の幕末から、押し寄せてくる外からの怒涛のような攻勢に、飲み込まれ、転がされながら、落ち着く暇もなく、あれよあれよという間に、国が肥大化していきました。『欧米に遅れをとってはならぬ!』で、ついには軍部の暴走となって戦争に突入し、日清、日露、日中戦争、対米戦争、そして敗戦と、一気に突き進んできたのが日本だったのではないでしょうか。戦争に負けて、初めて、静まって思いを新たにすることができ、ホッとしたのが本音なのではないか、そう思っています。

 ホッとしましたら、中国で政治革命が起こり、朝鮮半島で戦争が始まり、日本の経済界は、「世界の工場」となって、未曾有の経済大国になり、生産に躍起になりました。そうした中、「ヴェトナム戦争」が起こり、経済界は、以前にまして忙しくなり、休む暇もなく経済が肥大化し、やがてバブルの破綻を経験したのです。その余韻は今日にまで及び、昔のような勢いがなくなってきているのが、日本の現状ではないでしょうか。

 それなら、これからは、虚勢を張って無理をしないで、つましく生きていったらいいのではないかと思うのです。紛争や戦争を回避して、狭い国土を耕して、農業をして、小さな幸せを楽しんで生きたらいいのです。一番は、この国土を戦場にしないことではないでしょうか。子どもたちに、また鉄砲を担がせて、戦場に出征させたりしないことです。〈昔の夢よもう一度!〉、を期待したら、あの1億の国民が悲惨を味わった時代と同じ轍を踏む事になってしまいます。私たちの課題は、自然界の異変、人口問題、食糧問題です。隣国と領土の所有権や覇権を競うことよりも、国々が協力して、この課題のために知恵を出しあって協力すべき時が来ているのですから。

(写真上は、黒船来航時の様子を描いたえ、下は、北極海の海氷分布の変化です)