抗議&公義

 

 帰国中、好いニュースが少なかったのです。日本中が、豪雨とか、領土問題とか、熱中症とかの話題で満ち溢れていました。そんなニュースの中で、福島原発事故の放射線漏れは、収束するのでしょうか。それとも、この問題を、ずっと引きずり続けていくのでしょうか。そんな思いにさせられているのに、大飯原発が再稼働しました。それで、週末の金曜日には、首相官邸にデモ隊が繰り出し、『再稼働反対!』と叫んでおり、その中に、私の下の息子がいるのだそうです。「義侠心」というのでしょうか、「正義感」の強い彼が、自分の甥や姪の将来のことを思いながら、次の時代を担う子供たちが、放射線被害を被ることのないようにと、寸暇を惜しみながら反対を叫んでいるのです。

 昔、「タコ部屋」というのがありました。有名なのが、北海道の開拓のために、道路整備が急務でした。「屯田兵」と言われた人たちが、その仕事にあたったのですが、その他に、監獄に収監されていた囚人たちを、その労働に使ったのです。彼らの血と汗とによって、北海道開拓が進み、道路網が広がったことになります。粗衣粗食の彼らの生活環境が、「タコ部屋」でした。甘いことを言って募集した人夫たちを、低賃金と劣悪な労働条件で働かせ、監視つきの宿舎に閉じ込めたのですが、そこも「タコ部屋」と呼んでいました。

 息子の話によりますと、事故現場の労働者たちは、山谷や釜ヶ崎の「ドヤ街」から、募集して、身入りのいい仕事につきたい人たちが送り込まれて仕事をしているのだそうです。十分な安全服を着用したりしていないのでしょうか、まさに放射線の中での労働は、危険極まりないのですし、多くの人たちが、放射線を浴びて死んでいるとのことでした。そういったニュースにならないことこそが、わたしたちの知らなければならない真実なのだと思います。

 産業界が活性化することは必要ですし、国力を元のように強力にすることも必要かも知れません。そうしたら子どもたちや若者に、日本の将来への期待がおおきくなることでしょう。。しかし、真実が伝えられていないことと、そして安全対策の盲点をくぐって、そういった労働が公然と行われていることに、私の息子は憤っているのです。反対運動をする人にも、様々な動機があるのですが、私は息子に、『「義」、とくに「公義」に立ってされない行動は、偽善や、不純な結果に人をつれていくので、同じ憤りを感じて反対するにしても、この立場を守って行動して欲しい!』と伝えたのです。

 『いつか、重大な事故が起こって、日本が壊滅するのではないか!』と思わせたのが、「日本沈没」という映画を見てからでした。近畿圏で、同じような事故が起きて、放射線が漏れるようなことが再び起こるなら、建国以来の一大危機に、日本は落ち込みます。それでなくても、地震と地震の噂を聞いているのですから。日本では、今日9月1日、関東大震災を記念した「防災の日」です。心して、惜しむことなく原発の危険帯の安全対策を怠ってはいけないと思うのです。

 もしかしたら、超ノーベル賞獲得確実な、「放射線の中和剤の発明」があるのでしょうか。そんな研究がなされているといいのですが。人類は、様々な危機を乗り越えてきたのですから、叡智を結集し、大能者にあわれみを求めるなら可能かも知れません。そんなことを願う「防災の日」であります。

(写真は、地震と津波のあと、爆発した福島原発事故の現場です)

上海

 昭和26年(1951年)に、作詞・東條寿三郎、作曲・渡久地政の「上海帰りのリル」という歌が流行りました。ビロードの声と言われた津村権が歌って、一世を風靡(ふうび)したのです。

船を見つめていた
ハマのキャバレーにいた
風の噂はリル
上海(シャンハイ)帰りのリル リル
あまい切ない 思い出だけを
胸にたぐって 探して歩く
リル リル 何処(どこ)にいるのかリル
誰かリルを 知らないか

黒いドレスを見た
泣いていたのを見た
戻れこの手にリル
上海帰りのリル リル
夢の四馬路(スマロ)の 霧降る中で
何も言わずに 別れた瞳
リル リル 一人さまようリル
誰かリルを 知らないか

海を渡ってきた
ひとりぼっちできた
のぞみ捨てるなリル
上海帰りのリル リル
暗い運命(さだめ)は 二人で分けて
共に暮そう 昔のままで
リル リル 今日も逢えないリル
誰かリルを 知らないか

 小学生の私が覚えて、こんな酒場や恋や運命などの歌詞の入った歌を口ずさんでいたのです。東洋最大の国際都市・上海は、なんとなくエキゾチックな香りがして、この歌をうたうたびに、子ども心にも、何時か行ってみたいと思っていました。しかし戦前は、列強諸国の「租界」があって、中国の治外法権の地域が、この上海にもありました。私が以前1年間住んだ天津の街にも「租界」があって、語学学校の先生が案内してくれて、見学して歩きました。中国人が入ることのできない「外国」が、自分の国にあったということは、中国のみなさんにとっては屈辱的なことだったのではないでしょうか。残念ながら、日本の租界もありましたし、日本人街もあったのです。その上、日本は軍隊を投入し「上海事変」を犯した経緯があるのです。

 以前、上海に行きましたときに、「東方明殊広播電視塔」の展望台から、『あのへんに日本人街があったのです!』と、案内してくださった朝鮮系中国人の方が教えてくれました。今回、通過した上海の街は、常住人口2000万人、アジア一の国際商業都市で、13万人もの日本人が住んで活動をしているのです。外国人としてはもっとも多いのが邦人だそうです。旅行者、私のような通過者を入れると、どれほどの日本人がいるのか見当がつきません。それほど日本と中国は緊密な関係にあるのですね。

 船の中で、上海で事業をしている数人の日本人、日本と中国を行き来している中国人ビジネスマンと話をしました。商売をしたことのない私にとって、興味をそそるような話や、大変な話をお聞きしました。そんな中で学生たちも大分いて、青山学院大学の3回生が、アジアの国々の子どもたちの実情を見聞しようと、中国を皮切りに旅行をすると言っていました。目の澄んだ好青年でした。名刺を交換して、『リポートをしてください!』とお願いし、旅の祝福を願って、港で別れました。もう一人は、アルバイトをして得た70万円を持って、『これから1年間、S大学で日本語を学ぼうと思っています!』言っていました。地理学を専攻し、これから大学院で学ぶ前の旅行なのだそうです。彼もキラキラした目を輝かせて、今時の学生にはないような、意気を感じさせてくれました。留学したり、海外で活躍しようとする若者が少なくなる傾向の中で、こういった志を持って出て行く学生がいることを知って、なんとなく嬉しくなってきてしまいました。

 上海、魯迅公園などがある街なのですが、歌に歌われ続けてきた街を、何時かぶらりと訪ねてみたいと思わされました。

(写真は、1928年の上海、「外灘(外国人居留地の租界)」です)

花金

 もう20年になるのですが、1992年5月1日に、国家公務員が週休2日制になって、企業でもこの制度を導入しました。私の勤め人時代は土曜日半ドンでしたし、受継いだ事業をし始めてからは、週末が忙しく、休むことなどなく40年近く働いたのです。サラリーマンにとって、連休前の金曜日の退社後は、「自由」や「開放」を味わうことができる至福の時を意味したのでしょうか、それで、「花金」と言われるようになったようです。バブルが弾けてしまってからは、有名無実になってしまったのかも知れませんが、それでも週休2日制というのは、働き蜂のように働き続けてきた日本人が、欧米並みに、週末に自分と向き合えるようになったということになるでしょうか。

 大阪に上陸した翌日、昼行高速バスで大阪駅から乗車して、東京駅日本橋口に着いたのが、7時半頃だったでしょうか。東京駅の地下街は、退社したサラリーマンで溢れていました。食べ物屋や居酒屋は満員で溢れかえっていました。一週間で一番「好い時」が、金曜日の夕刻であることが分かりました。顔から緊張感がなくなって、みんな楽しそうなおじさんやお兄さんやお姉さんたちでした。普段は通勤電車の中では、寡黙な人の群れなのですが、ネジが緩んで全くの開放感が溢れていました。家に帰れば夫や父親をしなければならないのですが、そこでは一人の普通の自分になれるので、本当の自分を演じることができるのでしょうか。こういった時が、日々の責務を支えているとしたら、花金の夕方のひとときというのは、どうしても必要にちがいありません。

 今回の船旅で、東シナ海から日本沿岸に近付いた時に、対馬や壱岐の島の近くを通ったのだと思います。この壱岐の出身の方が、私の上司でした。お酒が好きで、市ヶ谷で会議がはねたあとは、決まって誘われて新宿で下車して、彼のお供をしました。旧制の浦和高校から東京大学に学んだ方で、法律を専攻され、事務局次長をしておられました。優秀な方でしたが、組織の人事というものの不思議さでしょうか、局長になれないでいたのです。そういった組織の様々な矛盾を感じながら、この方の下で働けせてもらいました。その後、どこかの学校の責任者になって転出されていかれたと聞いております。会議録をまとめると、『ダメ、やり直し!』と言われてはなんども書き直させられました。でも、とても好い勉強になったと思って、今では感謝しております。あの頃、金曜日でなくても、しょっちゅう、誘われていたと思います。話を聞いてあげる、聞き役に徹して、色々なことを学んだのかも知れません。

 日比谷公園の脇を、私の乗ってきたバスが通過しましたが、そこは、大都会のオアシスで、都民、取り分け丸の内界隈で働くサラリーマンの〈憩いの場〉の1つで、美しく整然とした緑の一郭であります。どなたが設計したのでしょうか、東京の街はきれいだと感心しました。ただビルが乱立しているだけではなく、堀を埋めることもしないで、往時のままに残しているのです。父の事務所が日本橋の三越の前にあって、何度かついていったことがありました。世代から世代へと、仕事が受け継がれ、人生の最も良い時期を、日本経済のために仕えた人々が通りすぎていった街であることを思って、感じることも一入のものがありました。

 そぞろ歩く人の波に合流し、山手線に乗り込みました。日がな一日、オフイスで働き、外回りをしていたサラリーマンの帰宅に合流したのでした。『お勤めご苦労様!』と、退職者の年齢の私は一言、そっとつぶやいてしまいました。

(写真は、日比谷公園の入り口です)