南信

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 長野県の南部を「南信」と呼ぶのですが、娘夫婦が、阿南という町と飯田に、3年ほど住んでいたことがあります。この滞在中に私たちの初孫が生まれましたので、生まれ故郷、育った街、働き子育てした街、その次に懐かしいのが、この「南信」になるかも知れません。娘婿が〈JET〉の英語教師をしていた間に、何度、ここを訪ねたことでしょうか。ことのほか、孫が生まれる前後には、相互に行来をしていましたから、そうとうの頻度数になるのではないかと思われます。

 初めて訪ねた時に、町内の温泉入浴施設に連れていってもらいました。町のはずれの渓谷にそって〈かじかの湯〉があって、何ともいえないほど、ゆっくりできたのです。空気も水も空も、何ともいえなく澄んでいて、〈リ・フレッシュ〉するとは、ああいう環境の中に、自分の心と体と現実を置くことなんだということがわかったようです。長野県は山国ですから、このような温泉施設が、あちらこちらに点在していて、両親を喜ばそうとして、娘夫妻は、そこかしこに連れて行ってくれたのです。遠山郷という村には、「かぐらの湯」があって、南アルプスから流れ下る川の縁で、せせらぎの流れを聞きながら入浴でき、帰りには、土地の名物のまんじゅう屋でたべたり、、ずいぶんと贅沢な思いをしたことがありました。私の働いていました街から、2時間足らずで行くことができた至便性と家族愛とが、休みごとに、ここに行かせてくれたのだと思います。

 ある時、木曽の「妻籠の宿」を訪ね、〈満蒙開拓〉で出掛けていった人を多く輩出したので有名な〈阿智村〉に行ったことがありました。今でこそ豊かな暮らしをすることができるようになりましたが、日本が工業化する以前のこの近辺は、山地で耕作地も少なく、日本でも有数の貧しい地域でした。それで、多くの人がブラジルやアメリカ、そして満州に、新天地を求めて出ていった地域なのです。そんな昔が嘘だったように、人々は、今、平均的で落ち着いた生活を営んで、楽しく生きておいででした。

 こちらに戻るときに乗った「蘇州号」の中で出会った方が、この飯田の出身だと言っておられました。東京で学ぶために上京し、そこで就職し、東京の近郊に住んでおいでとのことでした。『実は娘夫婦が・・・』と話をしましたら、『なんか不思議な出会いですね!』と言っておいででした。今の生活の様子を、私も話したりで、短い時間でしたが、ずいぶんと打ち解けて交わりができたのです。『これから3ヶ月、中国中を旅してきます!』と言って、大きなバッグを引いて上海で下船していかれました。退職後、奥さんの許可を得て、一人旅を繰り返しているのだと言っておられました。今頃、どの辺を旅していることでしょうか。少々、難問題が起こったさなかですが、まあ旅慣れしていますし、人当たりもいいので、無事に続けておいでだろうと思います。

 わが家には、昨年遅れに手に入れた「風呂桶」があり、「和の里の湯」と名付けているのです。時々、〈温泉の素〉を入れては、『♭いい湯だな、いい湯だな、ここは中国、和の里の湯!』と歌いながら入るのですが。明日は「中秋の名月」、風呂場の小さな窓からは名月を仰げそうにありませんが、久しぶりに湯を立ててみたいなと思っております。名月が見下ろす地球は、難問題が山積していますが、月が話せるなら、『地の上に平和、感謝や赦しがありますように!』と言わせたい、「中秋節」の前日であります。

(写真上は、南信の高山に咲く「コマクサ」、下は、http://www.astroarts.jp/photo-gallery/gallery.pl/photo/5828.htmlから「新城から見た名月(昨年)」です)