純情

 1936年(昭和11年)には、「二・二六事件」が起こり、ベルリンで「第6回オリンピック」が行われ、アジアでもヨーロッパでも戦争の足音が高まって、世界が飲み込まれようとしている前夜のようでした。この年に、佐藤惣之助作詞、古賀政男作曲、藤山一郎歌った、「男の純情」という歌が流行りました。

男いのちの 純情は
燃えてかがやく 金の星
夜の都の 大空に
曇る涙を 誰が知ろ

影はやくざに やつれても
訊いてくれるな この胸を
所詮男の 行く道は
なんで女が 知るものか

暗い夜空が 明けたなら
若いみどりの 朝風に
金もいらなきゃ 名もいらぬ
愛の古巣へ 帰ろうよ

 まだ生まれていない時の歌ですが、「純情」という言葉に惹かれて、この歌が大好きでした。勇猛果敢な「男気」が求められてる時代の只中に、「純情」な男の心が謳われて、一世を風靡したというのも、軍国化していく前夜なればこそ、許された歌謡曲だったのでしょうか。

 私の愛読書に中に、『男は、こうであってって欲しい!』と言って、『純真な心を奮い立たせよ!』、『純真な者となれ!』とあります。生まれてから、私の少年期や青年期には、『男は勇気、剛気、覇気がないといけない!』と言われて、学校でも運動部でも、上級生や先輩たちにハッパをかけられて生きてきたのです。しかも教師からもビンタを食わされて、規律を学ばされました。〈剛毅さ〉こそが、男の心や身につけなかればならないことだったのです。だから、巻藁に拳を打ち付けて、空手の練習をしたり、河原で大声を上げて、喉を鍛えたりもしました。

 この歌は一見、軟弱な男の歌のように思えますが、真の男の心には、〈優しさ〉も〈思いやり〉も必要なのだと歌うのでしょう。『金もいらなきゃ 名もいらぬ』との文句に、真の男の意気を感じてならないのです。多くの男が、〈金〉のためには手段を選ばないで得ようとするエゴを生きているのを見て、『俺は金に生きない!』と心の中で決めました。また多くの男が、「寄らば大樹の陰」と言って、尻尾を振りながら、名のある人のもとにすり寄って生きてる姿を見て、『俺は名のために真(まこと)を売らない!』と決心したのです。

 「男の純情」を好む、そんな主義主張のためでしょうか、金も名も家も財産もないまま、私は今日を迎えてしまいました。『老後のために蓄えをしなさい!』とたびたび、ある人たちに言われました。しかし、私に、〈真の男の生きる道〉を諭してくれた師たちは、妻や子たちに、何一つ残さないで逝きました。自分の墓さえも持たないで、共同墓地に埋葬されました。こういった生き方は、失敗者の最後なのでしょうか。いいえ、彼らの掲げた〈夢〉や〈理想〉や〈幻〉は、今も私の心の思いの中に、輝きながら生き続けています。明日は明日自身が思い煩うのですから、今日を満ち足りで生きていこう、そう決心している、「長月(夜長月)」の「白露(はくろ)」の宵であります。

(写真は、白露の頃、初秋のニューヨークの池の様子です)

内弁慶

 『お前は〈内弁慶〉だ!』と、よく父に言われました。「内弁慶」を、yahooの辞書で調べてみますと、『[名・形動]家の中ではいばりちらすが、外では意気地のないこと。また、そのさまや、そういう人。陰弁慶。「―な子供」 』とあります。私は、家の中では、兄たちよりも威張ってるけど、外に出ると、からっきし元気がなかったからです。就学前に肺炎にかかり、街の国立病院に入院し、死ぬ様は重症の中から生き返ったからでしょうか、父や母に甘やかされたのです。小学校の入学式にも出られませんでしたし、3年生頃までは、欠席が多かったのです。そんなことで、家の中にいることが多く、病弱な子であるというので過保護にされ、父の特愛の子だったのです。それでも父からは拳骨を食わされたこともありましたが、まあ我が世の春でした。父が味方だったからです。

 それでも4年生になって元気になってからは、体育の時間には、『廣田、跳んでみろ!』と言われて試技を演じるほどになったのです。クラスの遊びのリーダーになったりしましたが、みんなのことを考える余力がなかったので、三日天下だったのですが。そんな我が儘な私を、兄たちがからかったのです。味の素という食品が出てきた時に、〈アジノモト〉と言えないで、〈あじももと〉としか言えない、舌っ足らずだったのです。そんな劣等感に苛まれたり、複雑な心の動きで、引っ込み思案になっていました。

 中学には、兄たちが街の中学に行ったのに、私は電車通学の私立中学に通わせてもらいました。特別扱いだったのです。入学して間もなく、担任が私に、『廣田くん、電車通学で隣りに座ってるおじさんに、話しかけてごらん。きっと何か学べるから!』と言われて、素直な私は、それを実行していったのです。社会性が育っていなかったのでしょうか、そんなことを切掛に、積極的な生き方が身についてきたのでしょう。

 今回の船旅の乗船客を眺めていますと、独りポツネンとしている人が意外といらっしゃるのですね。そういった方は、他を受け付けないで、拒んでいる雰囲気が立ち込めているのです。それで、無理に話しかけるように、日頃しているのですが。奈良の大学を卒業し、故郷でアルバイトをした学生に話しかけました。佐渡の出身だとのことで、寡黙な青年でした。聞き出しますと、一生懸命に、自分の夢を語ってくれました。『これから1年、中国語を学び、日本に帰ってきたら、大学院に行って、専攻を学び続けようと思っています!』と言っていました。彼の将来をはげまして、上海で別れました。

 大阪の地下鉄に乗っても、甲子園に行くにも、中学の担任が勧めてくれたことを、〈三つ子の魂百までも〉で、まだ実行している、いえもう、それが私の生き方になっているのかも知れません。一人ひとりは、生まれてきた環境も、育った情況も違い、多種多様な生き方をしてきたわけです。違っていていいのですが、交わりを通して、自分を語り出す時、何かほっとしたものを感じるのです。二度と会わないような方と、しばらくの時と場所を同じにして、語り合うときに、たくさんのことを学ぶことができるようです。

 ゆっくり父とも母とも話し合うことが少なかったと思うのです。山陰の出の母は、じっと泣き言を言わないで生きた女性でしたし、男の子の私たち四人には、語りたくても語れなかったのかも知れません。父にしろ、『男は黙っていて、多くをしゃべるな!』と、昔気質の男でしたから。機会が少なかったのかも知れません。そんな時を持たないまま独立して、家庭を持ってしまったからでしょうか。そんなことを思い返して、父が語った言葉や、母の話してくれた少しの記憶を思い出そうとしております。

 そういえば、私の四人の子どもたちとも、膝を付き合わせて、ゆっくり話すことが少なかったのを思い出します。まあ、『話そうよ!』と言って話せるものではないのですが、話さなくても分かり合えることもあるのかも知れませんね。

(写真は、勧進帳の「武蔵坊弁慶」の像です)