内弁慶

 『お前は〈内弁慶〉だ!』と、よく父に言われました。「内弁慶」を、yahooの辞書で調べてみますと、『[名・形動]家の中ではいばりちらすが、外では意気地のないこと。また、そのさまや、そういう人。陰弁慶。「―な子供」 』とあります。私は、家の中では、兄たちよりも威張ってるけど、外に出ると、からっきし元気がなかったからです。就学前に肺炎にかかり、街の国立病院に入院し、死ぬ様は重症の中から生き返ったからでしょうか、父や母に甘やかされたのです。小学校の入学式にも出られませんでしたし、3年生頃までは、欠席が多かったのです。そんなことで、家の中にいることが多く、病弱な子であるというので過保護にされ、父の特愛の子だったのです。それでも父からは拳骨を食わされたこともありましたが、まあ我が世の春でした。父が味方だったからです。

 それでも4年生になって元気になってからは、体育の時間には、『廣田、跳んでみろ!』と言われて試技を演じるほどになったのです。クラスの遊びのリーダーになったりしましたが、みんなのことを考える余力がなかったので、三日天下だったのですが。そんな我が儘な私を、兄たちがからかったのです。味の素という食品が出てきた時に、〈アジノモト〉と言えないで、〈あじももと〉としか言えない、舌っ足らずだったのです。そんな劣等感に苛まれたり、複雑な心の動きで、引っ込み思案になっていました。

 中学には、兄たちが街の中学に行ったのに、私は電車通学の私立中学に通わせてもらいました。特別扱いだったのです。入学して間もなく、担任が私に、『廣田くん、電車通学で隣りに座ってるおじさんに、話しかけてごらん。きっと何か学べるから!』と言われて、素直な私は、それを実行していったのです。社会性が育っていなかったのでしょうか、そんなことを切掛に、積極的な生き方が身についてきたのでしょう。

 今回の船旅の乗船客を眺めていますと、独りポツネンとしている人が意外といらっしゃるのですね。そういった方は、他を受け付けないで、拒んでいる雰囲気が立ち込めているのです。それで、無理に話しかけるように、日頃しているのですが。奈良の大学を卒業し、故郷でアルバイトをした学生に話しかけました。佐渡の出身だとのことで、寡黙な青年でした。聞き出しますと、一生懸命に、自分の夢を語ってくれました。『これから1年、中国語を学び、日本に帰ってきたら、大学院に行って、専攻を学び続けようと思っています!』と言っていました。彼の将来をはげまして、上海で別れました。

 大阪の地下鉄に乗っても、甲子園に行くにも、中学の担任が勧めてくれたことを、〈三つ子の魂百までも〉で、まだ実行している、いえもう、それが私の生き方になっているのかも知れません。一人ひとりは、生まれてきた環境も、育った情況も違い、多種多様な生き方をしてきたわけです。違っていていいのですが、交わりを通して、自分を語り出す時、何かほっとしたものを感じるのです。二度と会わないような方と、しばらくの時と場所を同じにして、語り合うときに、たくさんのことを学ぶことができるようです。

 ゆっくり父とも母とも話し合うことが少なかったと思うのです。山陰の出の母は、じっと泣き言を言わないで生きた女性でしたし、男の子の私たち四人には、語りたくても語れなかったのかも知れません。父にしろ、『男は黙っていて、多くをしゃべるな!』と、昔気質の男でしたから。機会が少なかったのかも知れません。そんな時を持たないまま独立して、家庭を持ってしまったからでしょうか。そんなことを思い返して、父が語った言葉や、母の話してくれた少しの記憶を思い出そうとしております。

 そういえば、私の四人の子どもたちとも、膝を付き合わせて、ゆっくり話すことが少なかったのを思い出します。まあ、『話そうよ!』と言って話せるものではないのですが、話さなくても分かり合えることもあるのかも知れませんね。

(写真は、勧進帳の「武蔵坊弁慶」の像です)

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